人物

千子村正

Sengo Muramasa
15世紀後半 – 16世紀前半(享年50・推定)
室町幕府重要度 3

概要

伊勢桑名の刀工とその名跡。斬れ味で三河武士に愛用され、江戸時代には徳川家に祟る妖刀という伝説が広まった。

本文

村正は一人の刀工の名であると同時に、伊勢国桑名(いまの三重県桑名市)で何代も受け継がれた名跡でもある。通称を千子といい、その一派を千子派と呼ぶ。年紀を刻んだ村正で最も古いものは文亀元年(1501年)の作で、そこから慶長年間(1596〜1615年)まで銘が続く。初代は15世紀後半から16世紀初めに活動したとみられる。初代は美濃関の出身とする古い記録があり、作風にも関の刀工の影響が濃い。千子の名は、母が千手観音に祈って授かった子だからという桑名の伝承があるが、確かではない。

村正の刀は反りが浅く、鋭く引き締まった姿をしている。刃文が刀の表と裏でよく揃うのが特徴で、これを村正刃とも呼ぶ。茎(なかご)が先へ急にすぼまる形も村正の目印になる。永正10年(1513年)の作には法華経の題目を刻んだものがあり、妙法村正と呼ばれている。天文12年(1543年)に桑名の神社へ奉納した刀には藤原朝臣村正と刻まれ、この代の村正が五位相当の名乗りを許されていたことが分かる。戦国の世ですでに、指折りの刀工として名が通っていたのである。

桑名は伊勢湾を挟んで尾張・三河に近い。そのため村正と千子派の刀は、松平・徳川の家臣たちに広く使われた。徳川家康自身も村正を持っていた。家康の遺品として尾張徳川家に渡った刀剣の目録には打刀と脇差の二振りの村正が記され、打刀はいまも徳川美術館に残る。徳川四天王の酒井忠次の愛刀も、村正の弟子正真の作である。

徳川家と村正を結びつける話で、信頼できる史料に載るのは一つしかない。家康の祖父松平清康が1535年に家臣の阿部弥七郎に斬り殺された事件(森山崩れ)で、大久保忠教の『三河物語』(1626年ごろ)は、凶器をセンゴの刀、つまり村正と書いている。父の松平広忠が村正の脇差で刺されたという話も江戸初期の書物にあるが、記録ごとに中身が食い違う。いずれも凶器の作者の名を記しただけで、村正を不吉な刀とは扱っていない。三河武士の多くが村正を差していたのだから、事件に村正が出てくるのは不思議ではない。

村正を徳川家に災いする刀としてはっきり描いたのは、17世紀半ば以降に書かれた偽書『三河後風土記』である。そこでは、関ヶ原の戦いの後の論功行賞の席で家康が村正の槍に触れて指を傷つけ、持ち主の織田有楽斎が祖父と父の因縁を聞いて槍を折り、以後家中で村正を持つ者がなくなった、と語られる。18世紀前半の『落穂集』になると、家康が子どものころ村正で怪我をした、長男信康の切腹の介錯にも村正が使われた、という話が加わり、家康自らが村正を禁じたことにされた。19世紀には幕府の正史の附録にまでこの話が採られた。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

伝説が広まるにつれ、家康に敵対した人物も村正の持ち主にされていった。真田信繁(幸村)が家康を呪うため常に村正を帯びていたという話は、18世紀初めの徳川光圀の逸話集に見える。幕府の転覆を企てた由井正雪も村正を持っていたことにされた。持ち主に嫌われて銘を削られ、正宗などの名に改められた村正も少なくない。泰平で刀の需要が減ったこともあり、桑名での作刀は江戸時代中ごろに絶えた。

幕末になると、徳川に祟る刀という評判は逆に倒幕の象徴となった。西郷隆盛や有栖川宮熾仁親王らが実際に村正を所持していた。明治には吉原の遊女を斬った男を描く歌舞伎『籠釣瓶花街酔醒』などで、人を斬らずにおかない妖刀として演じられた。一方で伊藤博文は晩年、美術品として村正を愛蔵している。

村正は妖刀伝説だけで名を残したのではない。実際には戦国時代のうちに、よく斬れる実戦の刀の第一人者として名声を得ていた。その名声と、三河武士がこぞって差していたという事実が、江戸時代に入って徳川家の物語と結びつき、妖刀という姿に作り替えられたのである。

動画(1)

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