伊藤盛正
概要
美濃大垣城主。関ヶ原の戦いで西軍に付き、大垣城を石田三成に、松尾山の陣を小早川秀秋に明け渡した。のち加賀藩に仕えた。
本文
伊藤盛正は、安土桃山時代から江戸時代の初めにかけての武将である。生まれた年はわかっていない。父の伊藤盛景は織田信長の馬廻、つまり主君の身辺を守る親衛の武士の一人で、のちに豊臣秀吉に仕えて美濃国の大垣城を預かった。信長の馬廻の時代には、のちの加賀藩主前田利家と同僚だった。この縁は、のちに盛正の命運を左右することになる。
慶長4年(1599年)に父が死ぬと、盛正は家督を継いで大垣城主となり、3万4千石を領した。翌慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝を討つために東へ向かうと、そのすきに石田三成が兵を挙げた。盛正は三成の西軍に加わった。
大垣城は、美濃の平野の真ん中にあり、東から来る家康の軍を迎え撃つ西軍にとって欠かせない拠点だった。三成は大垣城を自分の本陣にしたいと求めた。盛正は一度は断ったが、結局は城を明け渡し、近くの今村城に退いた。大名にとって居城を人に渡すのは大きな屈辱だったが、味方の総大将の求めを拒み通すことはできなかった。
8月、東軍の先鋒は美濃に入り、西軍の城を次々に攻めた。盛正も兵を出したが、8月17日、東軍に付いた市橋長勝と戦って敗れた。8月23日には西軍の拠点だった岐阜城も落ち、東軍は大垣城の目の前の赤坂に集まった。9月14日には家康自身が赤坂に着いた。その夜、西軍の主力は大垣城を出て、雨の中を西の関ヶ原へ移った。
決戦が迫るなか、西軍は関ヶ原の南にある松尾山の城を整え、盛正がそこに陣を構えた。松尾山は関ヶ原を見下ろす要の地である。ところが9月14日、1万5千ともいわれる大軍を率いた小早川秀秋が松尾山に入り、盛正を追い出してしまった。盛正は、一つの戦いのあいだに、居城と陣地を二度も味方に明け渡したことになる。秀秋は西軍に属してはいたが、早くから東軍と通じているのではないかと疑われていた。その秀秋に関ヶ原で最も大事な山を譲らざるを得なかったことは、西軍の結束の弱さをよく表している。
9月15日の関ヶ原の戦いで、盛正も西軍の一隊として戦った。この日、松尾山の秀秋は東軍に寝返り、山を駆け下りて西軍の大谷吉継の隊を襲った。これをきっかけに西軍は総崩れとなった。盛正を追い出した陣地から、西軍を崩す攻撃が始まったのである。皮肉なことに、盛正が大垣城を出ていたことは、命を救うことにもなった。大垣城には西軍の兵が残って籠城を続けたが、東軍に囲まれ、やがて城を明け渡した。盛正が去った大垣城は、その後いくつかの大名の手を経て、1635年から明治まで戸田家の城となった。

戦いのあと、家康は西軍に付いた大名の多くから領地を取り上げ、それを東軍の諸将に分け与えた。盛正も大垣の領地を失い、浪人になった。京都にひそんでいたとき、家康に見つかって殺されそうになったが、豊臣家の恩を受けた大名で、関ヶ原では東軍の先鋒を務めた福島正則の懇願によって、命を助けられたと伝えられる。盛正はその後、正則の領地である広島で15年ほど暮らした。
関ヶ原から20年後の元和6年(1620年)ごろ、盛正は加賀藩に移り、藩主の前田利常に仕えた。父と前田利家が信長の馬廻として同僚だった縁による。盛正の正室も、利家の養女だった。盛正は2000石を与えられ、前田家から「利」の字を授かって、伊藤図書頭利吉と名を改めた。前田家は彼を手厚く遇した。元和9年(1623年)3月に死んだ。子孫はいまも石川県に暮らしている。
大名から浪人へ落ち、命を拾い、他家の家臣として家を残す。関ヶ原で西軍に付いた多くの武将がたどった道を、盛正もたどった。城を二度明け渡したという不運な話で知られるが、生き延びて家を後の世へつないだことも、また確かな事実である。