長連龍
概要
能登畠山家の重臣の子。七尾城で一族を謀殺されたが、信長に仕えて仇を討ち、のち前田家の重臣となった。
本文
長連龍は、能登の守護・畠山氏の重臣の家に生まれ、一族をほぼ皆殺しにされながら生き延びて、仇を討ち果たした武将である。のちに前田利家に仕え、長家は加賀藩の重臣として江戸時代を通じて続いた。
天文15年(1546年)、畠山家の家臣・長続連の三男として生まれた。若くして臨済宗の寺に入り、孝恩寺の住職となって宗顒と称した。僧の身でありながら戦場にも出て、「孝恩寺」の名で呼ばれた。当時の能登畠山家は当主の力が弱く、長氏、遊佐氏、温井氏といった重臣たちが実権を争っていた。
永禄12年(1569年)、温井景隆と三宅長盛が畠山家に帰参したのを不満とした八代俊盛が兵を挙げると、孝恩寺は温井・三宅らとともにこれを迎え撃ち、八代父子を敗死させた。このときは味方として戦った温井・三宅が、のちに一族の仇となる。天正5年(1577年)7月、上杉方の軍勢が穴水城の救援に向かったときには、孝恩寺は法衣のまま水軍を率いて迎え撃ち、首70を取る大勝を収めたと伝えられる。
天正5年(1577年)、越後の上杉謙信が能登に攻め込み、長続連は畠山家の居城・七尾城に立てこもった。城内では幼い当主の春王丸が病死して士気が落ち、続連の長男の綱連は、弟の孝恩寺(連龍)をひそかに海路で送り出し、織田信長に援軍を求めさせた。ところが連龍の留守中、上杉方に通じた遊佐続光が温井景隆・三宅長盛の兄弟と謀り、9月15日、続連・綱連ら長一族を城内で殺した。殺された一族は十数人にのぼり、生き残ったのは連龍と、綱連の幼い末子だけだったという。七尾城は上杉方の手に落ちた。
連龍が織田の援軍とともに戻ったときには、すでに遅かった。一族の首は浜辺にさらされていたと伝えられる。連龍は信長に仕えて復讐の機会を待つことになった。翌天正6年(1578年)、自ら兵を集めて穴水城を奪い、遊佐・温井らと戦いを繰り返した。天正8年(1580年)には名を連龍と改め、能登の鹿島郡の半分にあたる3万1000石を信長から安堵された。織田方の北陸攻めが進むと、柴田勝家や前田利家らとともに能登の敵方を攻め、逃げた遊佐続光を追って討ち取った。
残る仇の温井景隆と三宅長盛はいったん織田方に降ったが、天正10年(1582年)の本能寺の変の後、上杉方と結んで能登の石動山に兵を挙げた。前田利家と佐久間盛政がこれを攻め、温井・三宅の兄弟は討ち死にした(石動山の戦い)。連龍もこの戦いに加わっており、長一族を殺した者たちはこれでほぼすべて滅んだ。

信長の死後、連龍はそのまま前田利家の家臣となった。賤ヶ岳の戦いでは前田軍の殿(しんがり)を務め、家臣30人余りを失った。天正12年(1584年)、佐々成政が末森城を攻めたときには、合戦の後に危険を顧みず駆けつけ、利家から「真実頼もしく」とたたえられた。その後も小田原攻め、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いの際の北陸での戦い、大坂の陣と戦場に出続け、生涯に41回の合戦に加わったとされる。
利家は死の直前、子の利長に残した遺書の中で、連龍と高山右近を役に立つ者として名を挙げている。信長から直接所領を安堵されていたため、連龍は前田家の家臣の中でも独立した大名に近い強い立場を持ち、長家は加賀藩の最上級の重臣「八家」の一つに数えられた。
元和5年(1619年)2月、能登の田鶴浜で死去した。享年74(数え)。家は次男の連頼が継ぎ、子孫は3万3000石の家老として幕末まで続いた。一族を失った僧が還俗して仇を討ち、その後は大藩の柱となった生涯は、戦国の能登の激しい権力争いをよく映している。