人物

ハインリヒ・フォン・シュテファン

Heinrich von Stephan
AD1831年1月7日 – AD1897年4月8日(享年66)
ドイツ帝国重要度 3

概要

仕立屋の子として生まれ、16歳で郵便局の見習いになり、ドイツ帝国郵便の長官まで昇った。国際郵便の料金体系が複雑を極めていることを実務で知り、世界を一つの区域とみなす案を書いた。1874年のベルン会議でそれが通り、万国郵便連合が生まれた。絵葉書の制度化を後押しし、電話をドイツに導入し、ベルリンに郵便博物館を作った。外来語のテレフォンを避け、フェルンシュプレッヒャーというドイツ語に言い換えた人物でもある。

所属

ドイツ帝国

関わったできごと(1)

万国郵便連合AD1874年10月9日 · 提案

本文

ハインリヒ・フォン・シュテファンは1831年1月7日、プロイセン王国のポンメルン地方の町シュトルプ(現ポーランドのスウプスク)に生まれた。生まれたときの名はエルンスト・ハインリヒ・ヴィルヘルム・シュテファンで、「フォン」はずっと後に付く。父は仕立屋で、家は豊かではなかった。息子は学校の成績がよく、語学にも秀でていたが、大学へ進む余裕はなかった。

ドイツの郵政長官で万国郵便連合の創設者、ハインリヒ・フォン・シュテファン
ドイツの郵政長官で万国郵便連合の創設者、ハインリヒ・フォン・シュテファンWikimedia Commons Georg Barlösius · Public domain

1848年、彼は地元の郵便局の見習いになった。窓口に立ち、手紙を受け付け、料金を計算する。この窓口の仕事が、のちの彼の考えの土台になった。当時、外国あての手紙の料金は、国と国とのあいだで個別に結ばれた条約で決まっていた。ドイツの中だけでも郵便の運営者がいくつもあり、手紙が通過する国ごとに料金が上乗せされ、同じ相手国でも経路によって値段が違った。窓口の係員は分厚い料金表を引き、客は高い料金と遅さに不満を言った。

彼は有能な実務家として頭角を現し、1856年にはベルリンのプロイセン郵便の中央の役所に呼ばれた。1859年には、プロイセンの郵便の歴史をまとめた大部の本を出している。昇進は速く、1870年には北ドイツ連邦の郵便総監になった。翌年ドイツ帝国の成立が成ると、そのまま帝国の郵便を率いる立場に立ち、1876年からは電信も合わせて受け持った。のちに貴族に列せられて「フォン」を名乗り、1895年には大臣の位を与えられた。

フォン・シュテファンの肖像メダル(1887年、1885年の貴族化後)
フォン・シュテファンの肖像メダル(1887年、1885年の貴族化後)Wikimedia Commons Berlin-George · Public domain

彼の名を世界に残したのは、国際郵便の仕組みである。1868年、彼は、条約に加わる国々をまとめて一つの郵便区域とみなし、重さだけで決まる単純な料金にする案を書いた。普仏戦争で話はいったん止まったが、戦後すぐに交渉は再開された。1874年9月、スイスの呼びかけでベルンに22か国の代表が集まった。議長はスイスの代表だったが、議論を引っ張ったのはシュテファンで、会議は1か月ほどで条約の調印にこぎつけた(万国郵便連合)。案が実務の細部まで練り上げられていたことが、この速さを生んだ。

ベルンで決まった原則は単純だった。加盟国のあいだでは、手紙の料金を重さで一律に近づける。料金は差し出した国が受け取り、相手の国には渡さない。手紙は行きも帰りもあるから、差し引けばおおむね釣り合う、という考えである。経由する国は、外国の郵便物を自国の郵便物と同じように運ぶ。こうして、窓口の係員を悩ませた料金表の山が消えた。国内の郵便を安い一律料金にしたイギリスの改革(ペニー・ブラックと郵便改革)を、世界に広げたものと言ってもよい。

メダルの裏面、フォン・シュテファンの紋章
メダルの裏面、フォン・シュテファンの紋章Wikimedia Commons Berlin-George · Public domain

彼は郵便葉書の推進者でもあった。1865年、ドイツの郵便当局の会議に、封をしない一枚の紙の郵便を提案したが、誰にでも中身が読めるのは品がないとして退けられた。1869年にオーストリア=ハンガリーが先に実現し、翌1870年には北ドイツ連邦も続いた。直後に始まった普仏戦争で、戦場の兵士が家族への便りに大量に使い、葉書は一気に広まった。

1877年、アメリカで生まれたベルの電話の知らせを聞くと、彼はすぐに装置を取り寄せて試させた。電信線の届かない小さな町を結ぶ手段になると見て、郵便の事業として電話網づくりを始めた。電話を表すドイツ語「フェルンシュプレッヒャー(遠くへ話すもの)」は彼が広めた言葉とされ、外来語を嫌う彼は郵便の用語も次々にドイツ語に置き換えた。1881年には、ベルリンで最初の電話交換局が開かれている(電話交換手)。

1872年には、ベルリンに郵便の博物館を作った。郵便を専門にした博物館としては世界で最初のもので、その流れをくむ博物館がいまもベルリンにある。

彼は仕事の人で、組織を作るのがうまかったと伝えられる。彼の下で帝国の郵便は職員を大きく増やし、農村の隅々まで郵便局を置いた。郵便を、国をつなぐ神経のようなものと考えていた。

1897年4月8日、シュテファンはベルリンで死んだ。66歳だった。ドイツの多くの町に、彼の名を付けた通りが残っている。ベルンで生まれた郵便の連合は、いまでは190を超える国と地域が加わる国際連合の専門機関になった。外国へ出す手紙の料金を差し出した国が受け取るという1874年の原則は、いまも国際郵便の土台にある。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1831年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →