概要
火を新しく起こすのは、長いあいだ、面倒な作業だった。鋼を火打ち石に打ちつけ、飛んだ火花を、焦がした布に受ける。そこに硫黄を塗った木片を当てて、ようやく炎になる。慣れた者でも数分、湿っていれば十分以上かかり、うまくいかないこともある。だから人は火を作るより、絶やさないようにした。灰に埋めた炭を朝まで持たせ、消えていれば隣家から火種を借りに行く。台所の火が家の中心にあったのは、暖かいからではなく、消すと取り戻せなかったからである。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
**中身**。
(——**小さな金属の箱**。
〈**(1)**火打ち石**(flint)。
**〈——硬い石。**
**——燧石(すいせき)とも書く。〉**
**(2)**そして、**火打ち金**(steel)。
**〈——炭素を多く含む、鋼の輪、あるいは、帯。〉**
**(3)さらに、**火口**(tinder)。
**〈——焦がした布(char cloth)。**
**——麻や木綿を、空気を絶って、蒸し焼きにしたもの。**
**——あるいは、**ホクチタケ**という茸を、叩いて、なめしたもの。〉**
**(4)そして、**付け木**(match / spunk)。
**〈——薄い木片の先に、**硫黄**を塗ってある。**
**——火口の熾火を、**炎に、変える**ための道具。〉**
**(5)さらに、**蓋**。
**〈——押し付けて、**火口の火を、消す**ためのもの。〉〉**
**——**箱そのものが、**蝋燭立てを、兼ねている**ものが多い**。〉)
**やり方**。
(**(1)**火打ち金を、**石の縁に、鋭く、擦り下ろす**。
〈**——**削れるのは、**石ではなく、鋼のほう**である**。
**——**削り取られた、**微細な鉄の屑**が、
**——**摩擦の熱で、**空気中で、燃える**。
**〈——それが、火花である。**
**——「石から火が出る」のではない。〉〉**
**(2)**そして、**火花を、**火口に、落とす**。
〈**——**炎にはならない**。
**——**布の一点が、**赤く、熾る**だけ**。〉
**(3)さらに、**息を、**そっと、吹く**。
〈**——**強すぎれば、**飛ぶ**。
**——**弱ければ、**消える**。〉
**(4)そして、**付け木の先を、**その熾火に、当てる**。
〈**——**硫黄が、**低い温度で、燃える**。
**——**ようやく、**炎になる**。〉
**(5)さらに、**蝋燭に、移す**。〉)
**どれくらい、かかるか**。
(——**慣れた者で、**数分**。
〈**——**十九世紀の記録に、**「三分で点けば、上出来」**という言い方がある**。〉
**——**うまくいかない条件**。
〈**(1)**湿気**。
**〈——火口が湿っていれば、**まず、点かない**。**
**——だから、**箱は、密閉する**。〉**
**(2)**そして、**寒さ**。
**(3)さらに、**暗さ**。
**〈——夜中に、**手探りで、火花を、飛ばす**。**
**——目が眩んで、余計に、見えなくなる。〉**
**(4)そして、**焦り**。
**〈——うまくいかない日は、**何十回でも、失敗する**。〉〉**
**——**十七世紀の日記に、**火が点かないことへの、苛立ち**が、繰り返し出てくる**。
〈**——**それは、**日常の、小さな災難**だった**。〉)
**だから、保つ**。
(——**作るより、**絶やさないほうが、楽である**。
〈**(1)**埋み火**(うずみび)。
**〈——炭を、**灰の中に、埋める**。**
**——空気を、細く絞る。**
**——朝まで、**熾が、残る**。〉**
**(2)**そして、**火消壺**。
**〈——燃えている炭を入れ、**蓋をして、酸素を絶つ**。**
**——消し炭ができ、**次に、点きやすい**。〉**
**(3)さらに、**炉を、**絶やさない**。
**〈——ヨーロッパの農家でも、**泥炭の火を、何十年も、絶やさなかった**という話がある。〉〉**
**——**そして、**借りる**。
〈**——**消えてしまえば、**隣の家へ、火種を、もらいに行く**。
**——**小さな鍋か、**火挟みで、炭を、運ぶ**。
**——**「火を貸す」**という表現が、**多くの言語に、ある**。〉
**——**つまり**。
〈**——**火は、**個人が、作るもの**ではなく、
**——**共同体が、**持ち回りで、保つもの**だった**。
**——**[[vestal-fire]]は、**それを、国家の規模で、やっている**。〉)
**周りにあった、他の方法**。
(**(1)**火錐**(ひきり)。
〈**——**木を、**木に、擦る**。
**——**最も古い([[control-of-fire]])。
**——**だが、**火打ち石より、**さらに、手間がかかる**。
**——**儀礼の場面にだけ、**残った**。〉
**(2)**そして、**レンズ**。
〈**——**太陽が要る**。
**——**そして、**夜には、使えない**。〉
**(3)さらに、**火の付いた縄**。
〈**——**火縄**。
**——**ゆっくり燃え続ける。**
**——**銃に使い、**煙草に使い、**そして、**火種の保存にも、使った**。〉
**(4)そして、**十九世紀の初め**。
〈**——**化学の力を、**借りようとする試みが、続く**。
**——**1805年、**シャンセル**(フランス)。
**〈——塩素酸カリウムを塗った木片を、**硫酸に、浸ける**。**
**——点くが、**硫酸の瓶を、持ち歩くことになる**。〉**
**——**1823年、**デーベライナー**(ドイツ)。
**〈——水素を、**白金に、吹きかける**。**
**——触媒で、発火する。**
**——高価で、**装置が大きい**。〉**
**——**どれも、**箱の中に、収まらなかった**。〉)
**終わり**。
(——**1826年**。
〈**——**[[friction-match]]**。
**——**擦れば、**点く**。
**——**数分が、**一秒になった**。〉
**——**火口箱は、**急速に、消えた**。
〈**——**十九世紀の半ばには、**もう、骨董である**。
**——**そして、**「火を借りる」**という習慣も、**同時に、薄れた**。〉
**——**残った言葉**。
〈**——**英語の**tinderbox**は、**「一触即発の状態」**を指す語になった**。
**——**乾いた火口のように、**わずかな火花で、燃え上がる**。
**——**道具が消えても、**その手触りだけが、比喩として、残っている**。〉)
**残ること**。
(——**火を、**要るときに、作れる**か。
〈**——**それが、**できなかった**あいだ、
**——**家の中心には、**必ず、消えていない火**があった**。
**——**台所が、**家の中心だった**のは、**暖かいからではない**。
**——**そこにしか、**火が、無かった**からである**。〉
**——**そして**。
〈**——**マッチが、**その中心を、要らなくした**。
**——**火は、**場所から離れ、**ポケットに入った**。
**——**その代償を、**誰が払ったか**は、**[[matchgirls-strike]]**にある**。〉)