信用格付けの始まり
概要
鉄道の債券が大量に発行され、投資家はどれが危ないか分からなかった。ジョン・ムーディーが、鉄道会社の債券を調べ、AaaからCまでの記号で並べた冊子を売り出した。1916年にプアーズ、1922年にスタンダード統計、1924年にフィッチ。当初は投資家が買う情報誌だったが、1970年代から、格付けを受ける側が料金を払う方式に変わった。評価される者が評価する者に金を払う。この構造が、2008年の金融危機で厳しく問われた。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
本文
十九世紀の後半、アメリカは鉄道の建設に沸いていた。1860年に五万キロメートルほどだった線路は、1900年には三十万キロメートルを超えた(大陸横断鉄道の開通)。その資金の大部分は、債券を売って集められた。買い手はニューヨークやボストン、そしてロンドンの投資家たちである。だが、遠く離れた鉄道会社の実態を知るのは難しかった。決算書の書き方は会社ごとにばらばらで、数字をごまかす会社もあった。会社は次々に合併し、消え、作り直された。そして、よく潰れた。1873年、1884年、1893年の恐慌のたびに、多くの鉄道会社が破綻して管財人の手に渡った。どの債券が確かなのかを、投資家は知りたがっていた。
その需要に応える先駆けは、いくつかあった。1841年、ニューヨークの商人ルイス・タッパンは、各地の商人の信用を調べる事務所を作った。奴隷制の廃止を訴える運動家でもあったタッパンは、1837年の恐慌で自分の商会を潰した経験から、この商売を思いついた。各地の弁護士や商人を通信員にして地元の商人の評判を報告させ、それを冊子にして加入者に売る。若いころのエイブラハム・リンカーンも、イリノイ州でこの通信員を務めたことがある。この事務所は、のちの大手の信用調査会社につながっていく。ただ、これは商人の支払いぶりを調べるもので、債券の良し悪しを判定するものではなかった。
もう一つの先駆けは鉄道の統計である。1868年、鉄道の業界紙の編集者だったヘンリー・ヴァーナム・プアーは、全国の鉄道会社の線路の長さ、収入、資産、借金を、同じ形にそろえて並べた年鑑を刊行した。投資家は初めて、会社同士を比べられる情報を手にした。
ジョン・ムーディーは1868年、ニュージャージー州に生まれた。大学には進まず、十代でウォール街の銀行に使い走りとして入り、証券の実務を身につけた。1900年、彼は自分の会社を作り、鉄道だけでなく工業の会社まで広げて各社の統計を集めた便覧を出した。初版は数か月で売り切れた。ところが1907年の恐慌で会社は行き詰まり、ムーディーは事業を手放した。
1909年、ムーディーは新しい仕事を携えて戻ってきた。それまでの出版物は、数字を並べるだけだった。彼は判断を書いた。鉄道会社の債券を一つずつ調べ、その安全さをアルファベットの記号で格付けした本を出したのである。もっとも安全なものから順に、Aを三つ重ねたものからCまで。この記号の体系は、商人の信用調査で使われていた等級を参考にしたとされ、いまもほぼそのままの形で使われている。ムーディーが売ったのは情報ではなく、要約された判断だった。投資家は何百ページもの決算書を読む代わりに、数文字の記号を見ればよい。
後に続く会社がすぐに現れた。1916年にはプアーの流れをくむ出版社が、1922年には統計会社スタンダードが格付けを始め、1924年にはフィッチが、いまもっとも広く使われる、大文字のAを三つ重ねるものから始まる表記を導入した。1941年にはプアーズとスタンダードが合併する。ムーディーズ、スタンダード・アンド・プアーズ、フィッチの三社が世界の格付けを握る構図は、それからほとんど変わっていない。
1930年代、格付けは規制の中に書き込まれた。世界恐慌の中で、銀行が持つ債券の安全さを測る物差しとして、規制当局が格付けを使い始めたのである。1936年には、投機的と格付けされた債券を銀行が買うことが禁じられた。格付けは一民間企業の意見ではなく、法の上で効き目を持つものになった。1975年、証券取引委員会は、規制の上で使ってよい格付け機関という区分を設け、そこに認められたのは大手三社だった。新しい会社が入り込む余地は、事実上閉ざされた。

1970年ごろ、格付けの商売の形が根本から変わった。それまでは、格付けを知りたい投資家が冊子を買っていた。それ以後は、債券を出す会社や国が、格付けをしてもらうために料金を払うようになった。1970年に当時全米最大の鉄道会社ペン・セントラルが突然、短期の借金の支払いを止めて市場が凍りついたことで、格付けのない債券は売れなくなり、発行する側が格付けを求めるようになったのがきっかけとされる。コピー機が普及して冊子の中身が簡単に複製され、冊子を売る商売が成り立たなくなったという事情もあった。
こうして、評価される者が評価する者に金を払う仕組みができあがった。格付け会社は、甘い格付けをすれば信用を失って商売が成り立たなくなる、長い目で見た評判こそが唯一の財産だ、と説明してきた。その説明が厳しく問われたのが、2008年の金融危機(世界金融危機)である。
2000年代半ば、アメリカでは返済の能力の低い人向けの住宅ローンが大量に貸し出され、それを束ねて作られた複雑な証券に、最上級のAを三つ重ねた格付けが次々と付けられた。最上級は本来、アメリカの国債と並ぶもっとも安全な区分で、その格付けを持つ事業会社は世界に数社しかなかった。住宅の値段が下がり始めると、そうした証券は次々に値を失い、最上級だった格付けがわずか数か月で投資に適さない水準まで引き下げられた。危機の後、議会の調査委員会は、その背景を明らかにした。格付けの計算は、住宅の値段が全国で同時に下がることを想定していなかった。証券化の商品の格付けは格付け会社にとって非常に儲かる仕事で、2006年にはムーディーズの収入の四割あまりを占めていた。発行する側は複数の格付け会社に打診し、いちばん高い格付けを出すところを選ぶことができた。社内の警告は聞き流された。公表された社員のやりとりには、たとえ牛が組み立てた取引でも自分たちは格付けするだろう、という自嘲めいた言葉まで残っていた。
危機の後、2010年の金融規制改革法は格付け会社への監督を強め、法令の中から格付けに頼る規定を減らすよう求めた。スタンダード・アンド・プアーズは2015年に司法省や州との和解で十数億ドルを、ムーディーズは2017年に八億ドルあまりを支払った。それでも、三社による寡占も、発行する側が料金を払う仕組みも、基本は変わっていない。
格付け会社は国家も格付けする。2011年8月5日、スタンダード・アンド・プアーズは、借金の上限をめぐる政治の混乱を理由に、アメリカ合衆国の格付けを最上級から一段引き下げ、世界の市場を揺らした。同じころ、ギリシアやポルトガル、アイルランドの格下げは、ヨーロッパの債務危機を加速させた。日本の国債も2000年代初めに引き下げられ、2002年、日本の財務省は、世界最大の債権国である日本が一部の途上国より低く格付けされるのはなぜか、と格付け会社に公開の質問状を送った。
三つの民間企業が、国家や企業の信用を数文字の記号で表す。その判断が、規制と投資家の行動と金利を通じて、世界の経済を動かしている。鉄道の債券を見分けるために始まった一人の男の冊子は、いまでは、では誰がその格付け会社を格付けするのか、という問いを抱えたまま、金融の仕組みの奥深くに組み込まれている。