ヘンリー・トンプソン
概要
サフォークの雑貨商の子。24歳まで家業を手伝い、遅れて医学を志した。泌尿器の外科で名を成し、ベルギー王レオポルド1世とナポレオン3世の膀胱結石を手術した。天文学、絵画(王立美術院に出品した)、陶磁器の収集、そして「オクターヴ」と呼ぶ8人8品の晩餐会。1874年、火葬協会を設立し、20年かけて合法化と施設の建設を進めた。彼自身の遺体も焼かれた。
関わったできごと(1)
近代の火葬AD1874年 · はじめた本文
ヘンリー・トンプソンは1820年8月6日、イングランド東部サフォーク州の町フラムリンガムに生まれた。父は食料や日用品を扱う雑貨商で、国教会に属さない厳格な信仰の家だった。父は息子に店を継がせるつもりで、医学を志したいという願いに反対した。ヘンリーは20代の半ばまで家業を手伝い、それからロンドンのユニヴァーシティ・カレッジで医学を学び始めた。同じ世代の医学生より何年も遅い出発だったが、彼は猛烈な勉強でその遅れを取り戻した。
外科医として彼が専門にしたのは、膀胱の結石だった。当時、結石は珍しくない病で、激しい痛みを伴った。腹や会陰を切って石を取り出す手術は危険で、命を落とす患者も多かった。トンプソンが磨いたのは、切らずに尿道から細い器具を入れて石を砕き、洗い流す方法である。彼はこの手術の名手として知られるようになった。
名声を決定づけたのは二人の患者だった。1860年代のはじめ、彼はベルギー王レオポルド1世の結石を砕いた。70代の王は回復し、トンプソンの名はヨーロッパに広まった。1873年1月には、普仏戦争に敗れて退位し、イギリスに亡命していたフランスの元皇帝ナポレオン3世を手術した。2度の処置のあと、3度目を前にして元皇帝は死んだ。死因をめぐって批判を浴びたトンプソンは、詳しい報告を公表して応じている。
彼は外科医にとどまる人ではなかった。自宅に望遠鏡を据えて天体を観測し、風景画を描いて王立美術院の展覧会にたびたび入選した。画家ミレーとは親しく、ミレーは彼の肖像を描いている。中国の染付の磁器を熱心に集め、その図録には画家ホイッスラーが挿絵を描いた。偽名で小説も2冊出した。
食卓にもこだわった。彼が自宅で開いた「オクターヴ」と呼ばれる晩餐会は、8人の客、8品の料理、夜8時の開始と決まっていた。8人は全員が一つの会話に加われるいちばん多い人数だ、というのが彼の考えだった。政治家、画家、科学者、作家が招かれ、晩餐は生涯に何百回も開かれたと伝えられる。食べ物と健康についての本も書いている。
1873年、トンプソンはウィーンの万国博覧会で、イタリアの研究者が出品した遺体を焼く炉と、焼いたあとの白い遺灰を見た。翌1874年1月、彼は評論誌に、埋葬に代わる遺体の扱い方として火葬を勧める論文を発表した。同じ月、自宅に賛同者を集めて火葬協会を作った。小説家トロロープや画家ミレーも名を連ねた(近代の火葬)。
彼の議論ははっきりしていた。大都市の墓地はあふれ、埋められた遺体は土や水を汚し、生きている人々の健康を脅かしている。死者のために、これ以上の土地を明け渡し続けることはできない。さらに、葬儀に見栄を張って借金を背負う貧しい家族にとって、火葬は安くすむ。
反発は激しかった。死者の復活を説くキリスト教の教えに背く異教のやり方だ、という宗教からの非難があり、愛する者の遺体を焼くことへの感情的な拒否があった。そして一つ、鋭い実務上の批判があった。焼いてしまえば毒殺の証拠が消える、というのである。土葬なら、疑いが出てから掘り返して調べられる。トンプソンはこの批判の正しさを認め、火葬の前に医師が死因を確かめる手続きを設けることを提案した。
道のりは長かった。協会は1878年、ロンドン南西のウォーキングに炉を建てたが、内務大臣が使用を認めず、何年も放置された。1884年、ウェールズの風変わりな医師ウィリアム・プライスが、死んだ幼い息子を丘の上で自ら焼いて裁判にかけられた。プライスは古代ケルトの祭司ドルイドの後継者を名乗り、80歳を過ぎて子をもうけた奇人で、遺体を焼く火を見た村人たちは騒然となった。裁判で判事は、人に迷惑をかけない形で行うかぎり、火葬はそれ自体違法ではないと判断した。翌1885年3月、ウォーキングで最初の正式な火葬が行われた。その年の火葬はわずか3件だった。トンプソンは書き、講演し、議員に働きかけ続けた。名のある外科医で、王族の手術を任された人物が先頭に立っていたことが、火葬を変わり者の主張から真面目な議論へ引き上げた。1902年、ついに火葬法が成立し、火葬の場所の規制と、医師による死因の確認の手続きが定められた。
1904年4月18日、トンプソンはロンドンで死んだ。83歳だった。遺体は、その2年前に開かれたばかりのゴールダーズ・グリーン火葬場で、彼自身が求めたとおりに焼かれた。
彼が死んだころ、イギリスの火葬はまだごくわずかだった。いまでは、亡くなった人の大半が火葬されている。火葬が当たり前の日本でも、明治のはじめには一時禁じられたことがある(火葬禁止令)。焼くか埋めるかは、宗教と感情と土地と衛生がせめぎ合う問題だった。トンプソンが20年かけて通した、医師が死因を確かめてから焼くという手続きの考え方は、いまも各国の制度の土台にある。