概要
サフォークの雑貨商の子。24歳まで家業を手伝い、遅れて医学を志した。泌尿器の外科で名を成し、ベルギー王レオポルド1世とナポレオン3世の膀胱結石を手術した。天文学、絵画(王立美術院に出品した)、陶磁器の収集、そして「オクターヴ」と呼ぶ8人8品の晩餐会。1874年、火葬協会を設立し、20年かけて合法化と施設の建設を進めた。彼自身の遺体も焼かれた。
関わったできごと(1)
近代の火葬AD1874年 · はじめた本文
1820年8月6日、サフォーク州**フラムリンガム**。
父は、**雑貨商**(食料と日用品を扱う店)。厳格な会衆派(非国教徒)の家。
**遅い出発**。
彼は、**24歳まで、家業を手伝った**。
(父は、彼に店を継がせるつもりだった。彼が医学を志したいと言ったとき、反対した。)
24歳、彼はロンドンへ出て、**ユニヴァーシティ・カレッジ病院**で医学を学び始めた。
(同世代より、5〜6年遅い。彼は、その遅れを、猛烈な勉強で埋めた。)
1851年、王立外科医師会の会員。
**外科医**。
彼の専門は、**泌尿器**——特に、**膀胱結石**の手術である。
(当時、結石は極めて多く、そして苦痛の激しい病だった。手術は危険で、死亡率が高かった。
彼が改良したのは、**砕石術**——切開せず、尿道から器具を入れて石を砕き、洗い流す方法である。当時としては、劇的に安全だった。)
**二人の患者**。
**(1)ベルギー王レオポルド1世**(1862年)。
80歳を超えていた。手術は成功した。
(王は快復し、その後3年生きた。トンプソンは、これで国際的な名声を得た。)
**(2)ナポレオン3世**(1873年)。
普仏戦争に敗れ、退位し、イギリスに亡命していた。
激しい結石の苦痛。トンプソンが、2回の手術を行った。
**3回目の手術の前に、皇帝は死んだ**。
(1873年1月9日。死因については、結石そのものと、腎不全と、麻酔の影響が論じられた。トンプソンは、批判に晒された。彼は、詳細な報告を公表して応じた。)
**彼の、他の顔**。
彼は、外科医だけの人ではなかった。
- **天文学**。自宅に観測所を作り、望遠鏡を据えた。天文学会の会員。 - **絵画**。**王立美術院**に、風景画を出品した(1865年から、20点以上が入選している)。
(彼は、画家アルマ=タデマとミレーの友人だった。ミレーが、彼の肖像を描いている。)
- **陶磁器**。**中国と日本の青磁**を、大規模に収集した。(彼のコレクションの図録を、ホイッスラーとゴドウィンが挿絵を描いて出版した。日本の美術がヨーロッパで注目され始めた時期である。) - **小説**。二冊、匿名で出版した。 - **食**。
**オクターヴ**。
彼が主催した晩餐会。
規則——**8人**の客。**8品**の料理。**8時**開始。
(数字にこだわった。彼はこれを、生涯に何百回も開いた。
客——グラッドストン(首相)、ミレー、レイトン、ハクスリー、そして各界の人物。
彼が言った——「**8人は、全員が一つの会話に加われる、最大の人数である**」。)
**火葬**。
**1873年**、彼は**ウィーン万国博覧会**を訪ねた。
そこで、イタリアの技師**ブルネッティ**が展示した、火葬の装置と、焼いた後の遺灰を見た。
**1874年1月**、雑誌『同時代評論』に、論文を発表した。
「**火葬——死者を処理する方法としての、埋葬に代わるもの**」。
**同年、火葬協会を設立**。
(設立の会合は、彼の自宅で開かれた。参加者に、トロロープ〈小説家〉とミレー〈画家〉がいた。)
**20年の闘い**。
1878年、ウォーキングに施設を建てた。**内務省が使用を禁じた**。
7年、放置された。
1884年、ウィリアム・プライスの裁判で、火葬が違法ではないことが確認された。
1885年、最初の公式の火葬。**その年、3件**。
1902年、**火葬法**。
トンプソンは、この間、**書き続け、講演し続け、そして議員に働きかけ続けた**。
(彼は、既に高名な外科医であり、王室に関わる人物だった。その社会的な地位が、この運動を「変人の主張」から「まともな議論」へ引き上げるのに、決定的に効いた。)
**彼の議論**。
彼が繰り返し述べたこと。
「**生者が、死者に、これ以上の土地を明け渡すことはできない**」。
そして——**貧しい者の埋葬費**。
(当時、労働者階級の間で、葬儀に見栄を張る風習が強く、そのために借金を負う家が多かった。
「埋葬組合」(葬儀費用の相互扶助)が広く存在し、そして、その保険金目当ての犯罪も報告されていた。
トンプソンは、火葬が安価であることを、社会的な利点として繰り返し挙げた。)
**批判**。
彼は、激しい批判を受けた。
- **宗教的**——復活の否定であり、異教である。 - **感情的**——遺体を焼くことへの、生理的な拒否。 - そして——**実務的な、鋭い批判**が一つあった。
**「毒殺の証拠が、消える」**。
(土葬なら、後で掘り返して検死ができる。焼けば、それができない。
この批判は、正当だった。だから、火葬法は、**火葬の前に、二人の医師による死因の確認**を求める規定を置いた。
——この手続きが、いまも各国の制度の基本にある。)
**死**。
**1904年4月18日**、死去。**83歳**。
**彼自身の遺体も、火葬された**。
(ゴールダーズ・グリーン火葬場。彼が設立に関わった施設である。)
**残ったもの**。
イギリスの火葬率は、彼の死の時点で**0.1%未満**だった。
いま、**約78%**である。
そして、その制度の骨格——施設の規制、二人の医師による死因の確認、遺灰の扱い——は、彼が20年かけて通した1902年の法律に、遡る。