できごと

マクドナルドの流れ作業

The Speedee Service System
AD1948年
重要度 4
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国メキシココロンビアニカラグアホンジュラスキューバグアテマラパナマAD1948年サンバーナディーノ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1948年の版図を描いています(11勢力)。

概要

カリフォルニアのドライブインで、マクドナルド兄弟が店を一度閉め、作り直した。品目をハンバーガーなど9つに絞り、皿と食器をやめ、注文係と焼き係と包む係を分けた。自動車工場の流れ作業を厨房に持ち込んだのである。値段を半分にし、待ち時間を30秒にした。1954年、ミキサーの営業マンだったレイ・クロックが、8台注文が来たこの店を見に行った。加盟店の網が、食の均質化と、農業と物流の再編を引き起こした。

場所

サンバーナディーノ
34.11°N -117.29°E · アメリカ・カリフォルニア州

本文

1940年代の南カリフォルニアでは、暮らしの中心に自動車があった。街道沿いにはドライブイン・レストランが並び、車を停めると、カーホップと呼ばれる店員、多くは若い女性が注文を取りに来て、料理を盆に載せて車まで運んだ。客は車の中で食べる。品書きは幅広く、ハンバーガーにバーベキュー、サンドイッチ、チリ、パイと、25品ほどがそろっていた。

リチャード(ディック)とモーリス(マック)のマクドナルド兄弟は、ニューハンプシャー州の靴工場で働く父のもとに育ち、映画の仕事を夢見てカリフォルニアに移った。映画館の経営やホットドッグの屋台を経て、1940年、ロサンゼルスの東の町サンバーナディーノに、カーホップ式のドライブインを開いた。店は繁盛した。

サンバーナディーノ砦の眺め(1852年)
サンバーナディーノ砦の眺め(1852年)Wikimedia Commons Public domain

ところが帳簿を見ると、気になることがいくつもあった。売り上げの大半は、ハンバーガーとポテトと飲み物という、ごく一部の品から来ていた。残りの品は手間と在庫と売れ残りを生むばかりだった。カーホップは人件費がかさみ、すぐ辞めて入れ替わる。皿やグラスや食器は洗う手間がかかり、割れ、持ち去られた。夜になると若者が車でたむろし、家族連れは寄りつきにくい。そして何より、注文してから料理が出るまでが遅かった。

1948年、兄弟は繁盛している店を3か月閉め、すべてを作り直した。品書きは、ハンバーガー、チーズバーガー、ポテト、シェイク、コーヒー、数種類の炭酸飲料、パイといった9品ほどに絞った。カーホップをやめ、客が自分で窓口まで来て注文し、自分で持ち帰る形にした(セルフサービスの考え方を取り入れたとも言える)。皿と食器もやめ、紙の袋と紙のコップと包み紙に替えた。洗い場が要らなくなる。そしてハンバーガーの値段を、30セントから15セントに下げた。

サンバーナディーノ(1865年)
サンバーナディーノ(1865年)Wikimedia Commons Public domain

核心は、調理を分解したことにある。兄弟は店の裏のテニスコートに、厨房の実物大の配置図をチョークで描き、従業員にその上を歩かせた。誰がどこに立ち、何歩動き、どの順で手を伸ばすかを確かめ、何度も描き直したという。できあがった厨房では、焼き係はパティを焼くだけ、仕上げ係は決まった量のケチャップ、マスタード、玉ねぎ、ピクルスを載せるだけ、揚げ係はポテトを揚げるだけ、シェイク係はシェイクを作るだけ、そして包む係とカウンター係がいる。注文ごとの具の変更は受け付けず、ハンバーガーはどれも同じに作る。道具も専用のものを作らせ、押せば同じ量が出る調味料の容器や、一度に何杯も作れるシェイクの機械をそろえた。フォードの流れ作業の考え方を、厨房に持ち込んだのである。兄弟はこれを「スピーディー・サービス・システム」と名づけた。

最初はうまくいかなかった。再開した店に来た客は、カーホップを探して戸惑い、売り上げは落ちた。数か月たつと客層が変わった。安く、速く、清潔で、子どもを連れて行ける店に、家族連れが来るようになった。注文から料理が出るまでは数十秒になった。売り上げは同業の平均を大きく上回り、1952年には飲食業の業界誌が表紙で取り上げた。見学者が押しかけ、その中には、のちにタコベルやバーガーキング、カールスジュニアを興す人たちもいた。速く安く同じものを出す店の形は、兄弟の店を見た者たちによって全米に広がっていく。

1954年、シカゴでシェイクの機械を売っていた52歳のレイ・クロックのもとに、サンバーナディーノの小さな店から8台の注文が来た。一台で5杯を同時に作れる機械で、ふつうの店なら1台で足りる。不思議に思った彼は店を見に行った。朝から店の前に列ができ、客が次々に袋を受け取って車に戻っていく。クロックは一日中それを眺め、兄弟に全国に店を広げようと持ちかけた。兄弟は乗り気ではなかった。すでに十分な収入があり、それまでに何店か試したフランチャイズでも、質を保つのに苦労していたからである。クロックは押し切り、1955年4月15日、イリノイ州デスプレーンズに自分の一号店を開いた。

クロックが力を注いだのは、どの店でも同じ品を同じ手順で出すことだった。加盟店の店主には細かな手引きを守らせ、のちにはシカゴ郊外に店長を育てる学校まで作った。パティの大きさや脂の割合、ポテトの切り方と揚げ時間まで決められ、客はどの町の店に入っても同じ味に出会える。兄弟が一軒の厨房で作った流れ作業は、クロックの手で、全国の数千の厨房を同じ形にそろえる仕組みへ広げられた。

1961年、クロックは270万ドルで兄弟から権利を買い取った。その契約にはサンバーナディーノの最初の店が含まれず、兄弟はマクドナルドの名を使えなくなった。店は「ビッグM」と名を変えたが、クロックがすぐ近くに店を出し、やがて閉店に追い込まれた。兄弟は売り上げの一部を受け取る約束を口頭で交わしていたと主張したが、書面は無く、支払われなかったとされる。会社は1965年に株式を公開し、1967年にカナダとプエルトリコへ、1971年には日本(マクドナルドの日本一号店)とオーストラリア、西ドイツへ出た。1990年にモスクワに店が開いた日には、3万人ほどが列を作った。

店の網が広がると、その裏側も作り変えられた。全国どこでも同じ味を出すには、同じ大きさのジャガイモ、同じ牛肉、同じパンが要る。契約栽培と農場の大規模化が進み、ブロイラーの誕生と同じように、食べ物の生産そのものが規格に合わせて組み直された。働き方も変わった。仕事を細かく分ければ、訓練は短くて済む。安い賃金と短時間の仕事と高い離職率が組み合わさり、1980年代には単調で将来の無い仕事を指して「マックジョブ」という言葉が使われるようになった。

社会学者ジョージ・リッツァは1993年、効率、計算できること、予測できること、技術による管理という原理が、教育や医療や旅行にまで広がっていく様子を「マクドナルド化」と呼んで論じた。反発も生まれた。1986年、ローマのスペイン広場の近くに出店が決まると、カルロ・ペトリーニらが抗議し、それがスローフードの運動につながっていく。同じ年、イギリスの経済誌は各国のビッグマックの値段を比べて通貨の割安や割高を測るビッグマック指数を発表した。半ば冗談で始まったこの指数は、いまでは真面目に引用されている。

マック・マクドナルドは1971年、ディックは1998年に世を去った。会社は長く、クロックの一号店が開いた1955年を創業の年としてきた。クロックの自伝は日本では『成功はゴミ箱の中に』の題で知られる。近年になって、会社の公式の歴史にも兄弟の1948年が書き込まれるようになった。テニスコートにチョークで描かれた厨房の図は、もちろん残っていない。

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