拡声器
概要
デンマーク生まれのピーター・イェンセンとエドウィン・プリダムは、電磁石で振動板を動かす仕組みを大きくして、音を空気へ押し出す装置を作った。1915年12月24日の夜、サンフランシスコ市庁舎前の広場に置かれた喇叭から、音楽と演説が流れた。十万人が集まったと伝えられ、後ろのほうでも聞き取れたという。数日後には、病気で出られない州知事の声を、自宅から線で運んで会場に流した。この日から、一人の声が届く範囲は、肺の力ではなく電気の量で決まるようになる。
場所
37.77°N -122.42°E · アメリカ合衆国・カリフォルニア州
本文
19世紀まで、一人の声が届く範囲は、その人の肺の力で決まっていた。屋外でよく通る声を持つ人でも、はっきり聞かせられるのはせいぜい数千人である。それ以上は、建物の形に頼るしかない。すり鉢形の客席で舞台の声を最後列まで運んだエピダウロスの劇場は、その工夫の極みだった。大きな集会では、前のほうの者が聞いた言葉を後ろへ復唱し、演説の中身は後で刷って配った。喇叭形の筒(メガホン)は声を一方へ向けるだけで、大きくはしない。
20世紀の初め、カリフォルニアに二人の技師がいた。一人はピーター・イェンセン(1886〜1961年)で、デンマークに生まれ、無線の発明家ヴァルデマー・ポールセンの会社で働いたのち、その事業の関係でアメリカへ渡った。もう一人はスタンフォード大学を出たエドウィン・プリダムである。二人はサンフランシスコの北、ナパの町に作業場を構えた。もとは、もっと感度のよい電話の受話器を作ろうとしていた。ベルの電話から四十年近く、電話は声を電流に変えて運ぶことには成功していたが、出てくる音は耳に当てなければ聞こえない小さなものだった。

二人が行き着いたのは、強い磁石の隙間に細い線を巻いた輪を置き、そこに音の形をした電流を流すという仕組みである。電流が変わるたびに輪は前後に動き、輪に貼った振動板が空気を押す。これが動電形、あるいは可動線輪形と呼ばれる方式で、いまの大きな拡声器も、耳に入れる小さな音の出る装置も、基本の原理は同じである。振動板の前には大きな喇叭を付け、空気を効率よく押し出した。作業場の屋根に置いて蓄音機の音を流すと、遠く離れた場所まで聞こえたという。
装置を大きな音で鳴らすには、マイクから来る弱い電流を強める工夫も要った。ちょうど三極の真空管による増幅が実用になりつつあった時期で、拡声器はこのあと増幅器と組になって発達していく。

1915年12月24日の夜、サンフランシスコの市庁舎前の広場に、二人の装置が据えられた。クリスマスを祝う催しで、喇叭からは音楽と歌、そして演説が流れた。集まったのは十万人と伝えられ、広場の後ろのほうでもはっきり聞き取れたと記されている。この年、サンフランシスコでは大地震からの復興を示す万国博覧会が開かれており、町は新しい技術を見せる場になっていた。
数日後の12月30日、州知事ハイラム・ジョンソンが病気のため会場へ行けなくなった。そこで知事の家にマイクを置き、電線で会場の拡声器につないだ。知事は家にいながら演説し、声だけが会場に届いた。人が来られなくても、声だけを運べる。広場の拡声器は、電話の線と組み合わさって、その場にいない者の声を大勢に聞かせる道具にもなった。
二人の会社は、ラテン語で「大きな声」を意味する「マグナヴォックス」を名乗った。1919年9月には、大統領ウィルソンがサンディエゴの野外で、この仕組みを使って数万人に向けて国際連盟への支持を訴えた。駅の案内、球場、議事堂、そして街角に据え付けられた喇叭へと、拡声器は急速に広まっていった。
同じ装置は、別の使われ方もした。十万人の群衆を、一人の声でまとめることができるようになったのである。1930年代のヨーロッパでは、ヒトラーが巨大な集会で拡声器の列を背に演説し、声の大きさそのものを権力の演出に使った。戦時の日本でも、街頭に据えたラジオと喇叭が、同じ放送を道行く人々に聞かせた。

この日を境に、声の大きさが体から離れた。それまで大勢に届く声には、訓練か、建物か、代わりに叫ぶ人が要った。以後は電気である。ただし装置は高く、据え付けられる場所も限られる。だから拡声器を持てる者の声だけが大きくなった。誰が喇叭を握るのかが、新しい問いになった。
十八年後、同じ電気の技術はラジオを通じて家の中に入る。そこで大統領は、広場で十万人に叫ぶのではなく、居間の一人に話しかけるほうが強い場合があることを示した(炉辺談話)。