ギョベクリ・テペ
概要
農耕が始まる前に、狩猟採集の人びとが巨石を立てて何かを建てた。神殿が先で村が後だった可能性が出てくる。
場所
37.22°N 38.92°E · トルコ・シャンルウルファ県
本文
トルコ南東部、シャンルウルファの町の北東に、まわりの平原より15メートルほど高い丘がある。地元では「太鼓腹の丘」を意味するギョベクリ・テペと呼ばれていた。1960年代の調査で石のかけらが見つかったが、中世の墓地だろうと片づけられた。1994年にドイツの考古学者クラウス・シュミットがここを訪れ、地表に出ていた石が人の手で加工された巨大な柱の頭だと気づく。翌年から発掘が始まった。
掘り出されたのは、T字型の石灰岩の柱を円形や楕円形に並べた囲いだった。中央に向かい合う2本の大きな柱は高さ5メートルを超え、重さは10トンほどある。周りを囲む壁にも、一回り小さな柱が埋め込まれている。近くの岩盤には、切り出しの途中で割れて放置された長さ7メートルほどの柱が残り、仕上がっていれば数十トンになったと見積もられている。金属の道具は無い。石の道具で岩を削り、運び、立てた。

柱には動物が彫られている。狐、猪、蛇、鶴、禿鷲、蠍。浮き彫りになった姿は力強く、どれも危険な生き物か、死にまつわる生き物に見える。中央の柱には人の腕と手が彫られ、腰に帯を締め、狐の毛皮を垂らしたものもある。T字の柱そのものが、顔のない人の姿、あるいは人を超えた何者かを表していると考えられている。
驚かされたのは、その年代だった。古い層の囲いは、放射性炭素年代で紀元前9600年ごろまでさかのぼる。最後の氷期が終わってまもなく、土器もまだ無く、麦や豆の栽培も始まる前になる。ストーンヘンジの完成より6000年以上古い。建てたのは、野生の動物を狩り、野生の植物を集めて暮らす人びとだった。

それまでの筋書きはこうだった。農耕が始まり(農耕の始まり)、食べ物の余りができ、人が定住し、村が大きくなり、やがて神殿や記念の建物が建つ。巨大な石の建造物は、農耕社会のあとに来るはずだった。ここでは順序が逆に見える。何かを建てるため、あるいは集まって儀礼をするために人が集まり、その大勢を食べさせる必要から、植物を育てることが始まったのではないか。シュミットはこれを「まず神殿があり、それから町ができた」と表した。
この考えを支えるかのように、丘からそう遠くないカラジャダー山地は、遺伝子の研究から、栽培されたヒトツブコムギの祖先が育った場所と見られている。肥沃な三日月地帯の北の弧で、狩猟採集民の大きな集まりと、最初期の麦の栽培が、ほぼ同じ場所と時代に重なっている。

ただし、その後の調査で見え方は少し変わってきた。シュミットが2014年に亡くなったあと、発掘を引き継いだ研究者たちは、雨水をためる貯水槽、大量の石臼、住居と見られる建物を見つけている。丘は人が来て儀礼をするだけの聖域ではなく、人が暮らしてもいた場所だった可能性が高い。野生の穀物をすりつぶし、ビールのような発酵した飲み物を作って宴を開いたのではないか、という説もある。「定住の前に神殿があった」という劇的な図式は、修正されつつある。
もう一つ分からないのが、囲いがなぜ土に埋まっていたのかだ。シュミットは、役目を終えた囲いを人が意図して埋め戻したと考えた。近年は、斜面から崩れた土砂や捨てられた廃棄物が長い時間をかけて流れ込んだのだ、とする見方も出ている。

周辺では、カラハン・テペをはじめ、同じT字の柱を持つ遺跡がいくつも見つかり始めた。ギョベクリ・テペは孤立した奇跡ではなく、一つの地域の文化の一部だったことになる。イェリコの壁やチャタル・ヒュユクに先立つ時代の人びとが、思われていたよりずっと大きな集団を組み、大きな仕事をしていた。
地中レーダーの探査では、丘の下にまだ少なくとも20ほどの囲いが眠っていると推定されている。発掘されたのは、全体の1割にも満たない。2018年に世界遺産に登録された。