一遍
概要
寺も持たず、書いたものも焼いて死んだ僧。念仏の札を配りながら16年歩き続け、身分も性別も問わずに人を集めた。
所属
日本関わったできごと(1)
一遍の遊行1274年 · 遊行した本文
一遍は1239年、伊予国(いまの愛媛県)の道後に生まれた。家は伊予の有力な武士河野氏の一族である。河野氏は源平の争乱で源氏に味方して力を伸ばしたが、1221年の承久の乱で朝廷の側について敗れ、一族の多くが没落していた。一遍の父もその一人で、出家した身だった。

10歳で母を亡くした一遍は、父の勧めで出家した。13歳のころ九州の大宰府へ行き、法然の流れをくむ浄土宗の僧のもとで十数年にわたって浄土の教えを学んだ。阿弥陀仏の名を唱えれば、誰でも極楽に往生できる。法然が説いた専修念仏の教えである(法然の専修念仏)。
1263年、父が亡くなると、一遍は伊予に戻った。いったん僧の身を離れ、家の仕事を継いだとも伝えられる。この間に妻を持ったともいう。だが一族のあいだで所領をめぐる争いが起き、一遍は親族に命を狙われた、という話が残っている。どこまでが事実かは分からないが、一遍はこの頃、世の中の縁にとらわれる自分を深く省みたらしい。30歳を過ぎて、再び仏道に戻った。

1271年、信濃の善光寺に参り、そこで見た絵をもとに、阿弥陀仏の救いを説く図を描いて持ち帰った。伊予の山中にこもって念仏の修行を重ね、1274年、ついに家も財も捨てて旅に出た。同行したのは、超一、超二と呼ばれる女性たちと少数の者で、彼女たちは一遍の妻と娘だったとする説もある。同じ年の秋、蒙古の軍が九州に攻め寄せている(元寇)。
旅の初め、一遍は人びとに念仏の札を配っていた。札には「南無阿弥陀仏」と刷られていた。ところが熊野へ向かう途中、ある僧に札を差し出すと、自分には信じる心が起きないから受け取れない、と断られた。受け取らなければ周りの人も受け取らない。一遍は無理に札を受け取らせたが、深く悩んだ。

悩んだ一遍は熊野本宮にこもった。そこで、熊野の神から告げを受けたという。あなたの勧めで人が往生するのではない。阿弥陀仏が悟りを開いたときに、すべての人の往生はすでに決まっている。だから、信じる信じないも、心が清いか汚れているかも問わず、ただ札を配ればよい。一遍はこの告げを、自分の教えの出発点とした(一遍の遊行)。
ここで一遍の教えは、法然や親鸞とも違う一歩を踏み出した。往生は人の信心によって得るものではなく、名号そのものの力で決まっている。だから相手が誰であっても構わない。武士でも農民でも商人でも、遊女でも、当時差別されていた人びとでも、札を受け取り、念仏を唱えればよかった。

一遍は九州から四国、中国地方、そして東国へと歩いた。1279年、信濃の佐久で、念仏を唱えながら鉦や太鼓を打ち鳴らし、躍り上がって踊る「踊り念仏」が始まった。喜びのあまり自然に体が動いたのだと伝えられる。踊り念仏は市や寺の境内で行われ、見物の群衆を巻き込んで大きな人気を呼んだ。一方で、はしたない振る舞いだと非難する僧たちもいた。
1282年、一遍の一行は鎌倉に入ろうとしたが、ちょうど通りかかった執権北条時宗の行列の前で、警固の武士に追い払われた(北条時宗)。一遍は鎌倉の外の片瀬にとどまって念仏を勧め、大勢の人が集まった。1284年に京都に入ったときには、四条の釈迦堂などに群衆が押し寄せ、身動きもとれないほどだったという。

一遍は寺を建てなかった。生涯を旅の中で過ごし、「捨聖」と呼ばれた。財も家も、執着する心も捨てる。それが一遍の生き方だった。1289年、摂津の兵庫の観音堂で死期を悟ると、持っていた経典や自分の書いたものを、自らの手で焼き捨てた。自分の一代の教えは、すべて南無阿弥陀仏になり果てた、と語ったという。同じ年の8月、一遍は51歳で死んだ。16年の旅で札を受け取った人は25万人を超えたと伝えられる。
一遍の死後、弟子たちは遊行を続け、その集団はのちに時宗と呼ばれる宗派になった。一遍の死から10年後の1299年、弟子の聖戒が絵師円伊と共に作ったのが、絵巻『一遍聖絵』である。一遍の旅の跡をたどって描かれたこの絵巻には、各地の市、港、橋、寺社の門前、そこに集まる武士や農民、物乞いや病の人びとまで、生き生きと描き込まれている。文字の史料からは見えない鎌倉時代の人びとの暮らしを伝える絵として、国宝に指定され、歴史の研究にも欠かせない資料になっている(物語「鎌倉文化 — 武士と民衆の仏教」)。