概要
ノースカロライナの農家。ガソリンスタンドで働き、中古のトラック1台で運送業を始め、全米有数の会社に育てた。港で荷を降ろすのに何時間も待った経験から、「荷台ごと船に載せればよい」と考えた。1955年、トラック会社を売り、船会社を買った。コンテナの特許を無償で公開し、規格の統一に協力した。彼の葬儀の朝、世界中のコンテナ船が一斉に汽笛を鳴らした。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
コンテナ輸送のはじまりAD1956年4月26日 · はじめた本文
1913年11月14日、ノースカロライナ州マクストン。綿とタバコの農家。7人兄弟。
(出生名は Malcolm。20代の頃、書類の綴りの誤りをそのまま使い始め、以後 **Malcom** で通した。)
高校を出たが、大恐慌で大学に行く金がなかった。ガソリンスタンドで給油係として働いた。
1934年、中古のトラックを買った。20歳。自分で運転し、土を運び、タバコを運んだ。
**マクリーン・トラッキング**。彼は徹底して費用を削った。
- 車体を軽くする(アルミの荷台。軽ければ、同じ規制重量でより多く積める)。 - 燃費の良いディーゼル。 - 空気抵抗を減らす整流板。 - 空車で走らせない(帰り荷の手配)。
1950年代、社は全米で5本の指に入る運送会社になり、1776台のトラックを持った。
**着想**。1937年、ホーボーケンの埠頭で、綿の俵を降ろすのを一日待った、という話を彼は繰り返し語った(後年の脚色が入っている可能性はある)。
港では、荷が一つずつ手で扱われる。船が停泊している時間が、航海時間と同じかそれ以上。輸送費の半分近くが、そこで消える。
「荷台ごと積めばよい」。次に、「シャシーは要らない、**箱だけ**でよい」。
**転身**。当時の規制(州際通商委員会)では、トラック会社が船会社を所有することが難しかった。
1955年、彼は**マクリーン・トラッキングを売却した**。2500万ドル。42歳の男が、成功した本業を手放した。
そして、パン・アトランティック汽船(老朽タンカーを持つ小さな会社)を買収した。
**アイデアルX**。1956年4月26日、ニューアーク港。改造したT2型タンカーの甲板に、35フィートのコンテナ58個。5日後、ヒューストン着。
その場に、国際港湾労働者協会の幹部フレディ・フィールズがいた。感想を聞かれて、彼は言った。「あの船を、沈めてやりたいね」。
**シーランド**。1960年、社名をシーランド・サービスに変更。
**規格**。他社は違う寸法を使っていた。互換性がなければ、システムにならない。ISOでの議論の末、20フィートと40フィートに統一された。
マクリーンは、コンテナの角金具(コーナー・キャスティング)とツイストロックの**特許を無償で開放した**。囲い込めば市場が育たない、と判断した。
**ベトナム**。1965年、彼は国防総省に売り込んだ。当時、ベトナムの補給は破綻していた。サイゴンの港は、船が沖で何週間も順番を待っていた。
シーランドはカムラン湾にコンテナ埠頭を作り、大量の物資を、定時に運んだ。軍需の契約は莫大だった。
そして彼は、帰りの空船に着目した。ベトナムからアメリカへ戻る途中、**日本に寄る**。日本の工業製品を積んで帰る。
1968年、日本―アメリカ西岸の定期コンテナ航路。これが、後の東アジアの輸出製造業の物流の土台になった。
**その後**。1969年、シーランドをR・J・レイノルズ(タバコ会社)に売却。1億6000万ドル。
1978年、ユナイテッド・ステーツ・ラインを買収。省エネの巨大な低速船(エコノシップ)を大量発注した。石油価格が上がり続けるという前提だった。
1980年代、石油価格が下がった。速い船が有利になった。1986年、同社は破産した。当時、アメリカ史上最大級の倒産の一つ。
1991年、78歳で、また新しい海運会社(トレイラー・ブリッジ)を作った。
**評価**。彼は技術者ではない。コンテナそのものは、19世紀から鉄道と港で試みられていた。
彼がしたのは、**輸送を、箱を運ぶ一つの体系として設計し直した**ことである。船、クレーン、トラック、鉄道、埠頭、書類、そして規格。どれか一つでは意味がなく、全部が揃って初めて費用が崩れる。
経済史家マーク・レヴィンソンは書いた。「コンテナが安くしたのは、輸送費ではない。輸送費を、経営の判断からほとんど消し去ったのだ」。
工場は、どこに置いてもよくなった。
**2001年5月25日**、ニューヨークで死去。87歳。
葬儀の朝、世界中の港と海で、コンテナ船が一斉に汽笛を鳴らした。