人物

マルコム・マクリーン

Malcom McLean
AD1913年11月14日 – AD2001年5月25日(享年87)
アメリカ合衆国重要度 4

概要

ノースカロライナの農家。ガソリンスタンドで働き、中古のトラック1台で運送業を始め、全米有数の会社に育てた。港で荷を降ろすのに何時間も待った経験から、「荷台ごと船に載せればよい」と考えた。1955年、トラック会社を売り、船会社を買った。コンテナの特許を無償で公開し、規格の統一に協力した。彼の葬儀の朝、世界中のコンテナ船が一斉に汽笛を鳴らした。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

コンテナ輸送のはじまりAD1956年4月26日 · はじめた

本文

マルコム・マクリーンは1913年11月14日、ノースカロライナ州マクストンの、綿とタバコを作る農家に生まれた。7人兄弟の一人である。出生時の綴りはふつうのマルコムだったが、のちに書類の綴りの誤りをそのまま使い続けたとされ、英語では最後まで少し変わった綴りで通した。

高校は出たものの、世界恐慌のさなかで大学へ行く金はなかった。ガソリンスタンドで給油の仕事をしながら、運ぶ仕事に目をつけた。1934年、20歳で中古のトラックを1台買い、自分で運転して土やタバコの葉を運んだ。

世界恐慌に関わる図版:Unemployed men queued outside a depression soup kitchen opened in Chicago by Al Capone, 02-1931 - NARA - 541927
世界恐慌Wikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

会社は、徹底して費用を削ることで大きくなった。荷台を軽い素材にして、同じ重量制限でより多く積めるようにする。燃費のよいディーゼルを使う。帰りに空荷で走らせないよう、帰り荷を手配する。1950年代半ばには、1700台を超えるトラックを持つ、全米でも有数の運送会社になっていた。

着想のきっかけとして、彼は1937年のある日の話を繰り返し語った。ニュージャージー州ホーボーケンの埠頭で、運んできた綿の俵が船に積まれるのを、一日じゅう待たされたというのである。後年の話には脚色が入っているかもしれない。だが港の実情は話のとおりだった。荷は港湾労働者の手で一つずつ下ろされ、船倉に積み直される。船が港に留まっている時間は、海を走る時間と同じか、それより長かった。運賃のかなりの部分が、港で消えていた。

2002年中国で開始されたメガプロジェクトで完成した洋山深水港。日本の主要5か所を合わせた数を遥かに凌駕する年間1,500万TEUのコンテナを取り扱う
2002年中国で開始されたメガプロジェクトで完成した洋山深水港。日本の主要5か所を合わせた数を遥かに凌駕する年間1,500万TEUのコンテナを取り扱うWikimedia Commons Reb42 · CC BY 3.0

荷台ごと船に積めばいい。さらに考えを進めると、車輪の付いた台車は要らない、箱だけでいい。ただ、当時の規制では、トラック会社が船会社を持つことは難しかった。1955年、42歳の彼は、自分が育てたトラック会社を手放し、老朽タンカーを持つ小さな海運会社を買い取った。成功した本業を捨てる、大きな賭けだった。

1956年4月26日、ニュージャージー州ニューアークの港から、戦時中のタンカーを改造したアイデアルX号が出航した(コンテナ輸送のはじまり)。甲板には金属の箱58個が積まれていた。5日後にテキサス州ヒューストンに着くと、箱はそのままトラックに載せられて走り去った。荷役の費用は、従来のやり方の何十分の一にまで下がったと試算された。出航を見ていた港湾労働者の組合の幹部は、感想を聞かれて、あの船を沈めてやりたいと答えたという。

1960年、会社はシーランド・サービスと名を改めた。だが、他の会社はそれぞれ違う寸法の箱を使っていた。互いに積み替えられなければ、箱はただの箱で、仕組みにならない。国際的な規格の議論(世界の規格を決める場)を経て、長さ20フィートと40フィートの箱が標準になった。このときマクリーンは、箱の四隅の金具と、それを固定する仕掛けに関する自社の特許を、無償で使えるようにした。囲い込んでいては市場そのものが育たない、と考えたのである。

転機はベトナム戦争だった。1960年代半ば、南ベトナムへの補給は行き詰まり、サイゴンの港の沖では船が何週間も荷下ろしの順番を待っていた。マクリーンは国防総省に売り込み、カムラン湾にコンテナ専用の埠頭を作って、大量の物資を決まった日程どおりに届けてみせた。軍の契約は巨額だった。

ベトナム戦争に関わる図版:U.S. Army UH-1H Hueys insert ARVN troops at Khâm Đức, Vietnam, 12 July 1970 (79431435)
ベトナム戦争Wikimedia Commons U.S. Air Force (Operation Holly 1970 (Folder 13 of 15), sheet 182) · Public domain

さらに彼は、帰りの空の船に目をつけた。ベトナムで荷を下ろした船が、アメリカへ戻る途中で日本に寄り、日本の工業製品を積んで帰る。日本とアメリカ西海岸を結ぶ定期のコンテナ航路が動き出し、のちの東アジアの輸出工業を支える物流の土台になった。

1969年、彼はシーランドをタバコ会社のR・J・レイノルズに売った。1978年には別の老舗の海運会社を買い、燃料を節約できる大型でゆっくり走る船を大量に注文した。オイルショックのあと、石油はこの先も上がり続けるという読みだった。ところが1980年代に石油の値段は下がり、速い船のほうが有利になった。会社は1986年に破産し、当時のアメリカで最大級の倒産の一つになった。それでも1991年、78歳の彼は、また新しい海運会社を興している。

彼は発明家ではない。荷を箱に詰めて運ぶ試みは、19世紀から鉄道や港で何度も行われていた。彼がしたのは、船、クレーン、トラック、鉄道、埠頭、書類、そして規格を、箱を運ぶ一つの仕組みとして組み直したことである。どれか一つだけ変えても費用は下がらない。全部がそろって初めて、港の何日もの手間が数時間になった。経済史家マーク・レヴィンソンは、コンテナが運賃を、工場をどこに置くかを決めるときにほとんど気にしなくてよいものに変えた、と論じている。

2001年5月25日、マクリーンはニューヨークで死んだ。87歳だった。葬儀の朝、世界中の港と海の上で、コンテナ船が一斉に汽笛を鳴らして彼を送った。

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