人物

ウォルター・バジョット

Walter Bagehot
AD1826年2月3日 – AD1877年3月24日(享年51)
イギリス重要度 3

概要

サマセットの銀行家の子。ロンドン大学で数学と道徳哲学。弁護士の資格を取ったが、父の銀行に入り、実務を知った。1861年から『エコノミスト』の編集長(義父が創刊者)。『イギリス憲政論』(1867年)で、憲法を「尊厳ある部分」(王室)と「機能する部分」(内閣)に分けて説明した。1873年『ロンバード街』。金融の現場を、感情と群集心理を含めて描いた。「金は、恐怖に対してだけは、貸されない」。51歳で肺炎により死去。

関わったできごと(1)

バジョットと最後の貸し手AD1873年 · 書いた

本文

ウォルター・バジョットは1826年2月3日、イングランド南西部サマセット州の町ラングポートに生まれた。父トマスは地方銀行スタッキーズの共同経営者で、母エディスはその銀行を興した一族の出だった。母は前の結婚で夫と子を亡くしており、心を病んで不安定になる時期があった。バジョットは生涯、母を深く思い、同時に母の病を恐れた。彼の文章には、狂気と理性をめぐる言葉がたびたび現れる。

ウォルター・バジョットの肖像
ウォルター・バジョットの肖像Wikimedia Commons Norman Hirst (1862–1956), after Unknown artist · Public domain

ブリストルで学んだあと、彼はロンドンのユニヴァーシティ・カレッジに進んだ。オックスフォードとケンブリッジは当時、国教会の信仰を学生に求めていた。父がユニテリアン(国教会に属さないプロテスタントの一派)だったバジョットにとって、宗教を問わない新しい大学が行き先だった。数学で優等の学位を取り、続いて道徳哲学で修士となり、1852年には法廷弁護士の資格も得た。だが彼は法律家にはならず、父の銀行に入った。

これが、彼をほかの経済の書き手から分けた。彼は手形を割り引き、客の信用を見きわめ、恐慌のときには窓口に立った。1857年の恐慌では、人々が預金を引き出しに押し寄せる様子を間近で見ている。故郷で銀行の仕事をしながら、彼はロンドンへ通って文筆を続けた。1855年には友人と評論誌を創刊し、シェイクスピア、ミルトン、ギボン、ディケンズらを論じた。その評論は、すぐれた散文としていまも読まれている。

1858年、彼はイライザ・ウィルソンと結婚した。その父ジェームズ・ウィルソンは帽子の製造業から身を起こした政治家で、穀物の輸入を制限する法律の廃止を訴えるため、1843年に週刊誌『エコノミスト』を創刊した人物である(穀物法の廃止)。1860年、ウィルソンはインドの財政を立て直すために送られた先で、赤痢にかかって死んだ。翌年からバジョットが『エコノミスト』の編集を担い、死ぬまで17年近く、その論説を書き続けた。彼の時代に、この雑誌は商売の情報誌から、政治と経済を論じる権威ある評論誌に変わった。

穀物法の廃止に関わる図版:1815 Corn Law, An Act to amend the Laws now in force for regulating the Importation of Corn
穀物法の廃止Wikimedia Commons British Government · Public domain

1867年に出した『イギリス憲政論』は、成文の憲法を持たないイギリスが実際にはどう治められているのかを解き明かした。彼は、書かれた形と実際の動きは違うと言い、憲法を二つの部分に分けた。一つは「尊厳をになう部分」で、王室や貴族院や儀式がこれにあたる。人々の忠誠と想像力と敬意を集めるのが役目である。もう一つは「実際に働く部分」で、内閣と庶民院がこれにあたる。実際に国を治めるのはこちらだ。内閣は、議会と行政とを結びつける留め金である、と彼は書いた。

大多数の人々は統治の仕組みを理解しない。しかし女王なら理解できる。王室の生命はその神秘にあり、魔法に日の光を当ててはならない。こうした一節は有名になった。当時、ヴィクトリア女王は1861年に夫アルバートを亡くしてから公の場にほとんど姿を見せず、王室への批判が高まっていた。バジョットは王室の意味を、実務ではなく、国民をまとめる象徴の働きに見いだしたのである。この本は議院内閣制を説明する古典になり、のちにほかの国々が議会政治を取り入れるときにも読まれた。

バジョット『英国憲政論』初版の表題紙(1867年)
バジョット『英国憲政論』初版の表題紙(1867年)Wikimedia Commons Walter Bagehot (3 February 1826 – 24 March 1877). · Public domain

編集長としての彼は、毎週のように金融と政治を論じ、イングランド銀行の手元の準備が薄すぎることをくり返し警告した。1866年5月、ロンドンの大手の手形割引商会オーヴァレンド・ガーニーが倒れ、町は激しい取り付け騒ぎに見舞われた。イングランド銀行は政府の許しを得て発券の制限を外し、大量に貸し出して混乱をしずめた。バジョットはこの経験を、のちの本の土台にした。

1873年の『ロンバード街』は、ロンドンの金融街の実際の姿を描いた本である(バジョットと最後の貸し手)。イギリスの商売の大半は借りた金で回っている。返してもらえると信じられているかぎり仕組みは動き、信頼が崩れた瞬間にすべてが止まる。そして国中の銀行の最後の支払い準備は、結局のところイングランド銀行の設立一つに集まっているのに、その理事たちはその責任を認めたがらない。彼はそう指摘した。

では、恐慌のときに中央銀行は何をすべきか。良い担保さえあれば、誰にでも、ためらわずに貸せ。ただし高い金利をつけよ。恐慌は一種の神経の痛みであり、科学の教えに従うなら、それを飢えさせてはならない、と彼は書いた。取り付け騒ぎを止めるのは、金はいくらでもある、と人々に見せることだという考えである。これは「最後の貸し手」の原則として、中央銀行の教科書になった。

1872年には『自然学と政治学』を出し、ダーウィンの進化の考えを人間の社会に当てはめようとした。古い社会では慣習の固い殻が人々をまとめ、生き残りを助ける。だが殻が固すぎれば社会は止まってしまう。殻を破って前へ進ませるのは「議論による統治」であり、人々が意見を戦わせることを許す社会だけが変わり続けることができる、と彼は論じた。晩年には経済学の大きな著作にも取りかかったが、未完に終わった。

政治家としては成功しなかった。何度か下院に立候補し、1866年の選挙ではわずか7票差で敗れた。演説では聴衆を前に込み入った議論をし、まるで雑誌の論説を読み上げているようだったと評された。それでも彼の影響力は大きく、首相グラッドストンは彼を、いわば予備の大蔵大臣と呼んで、予算について意見を求めた。

体は生涯丈夫でなかった。1877年3月24日、風邪をこじらせて肺炎になり、故郷ラングポートで死んだ。51歳だった。子どもはいなかった。

2008年、世界金融危機で銀行が次々に倒れかけたとき、アメリカやイギリスやヨーロッパの中央銀行の首脳たちは、バジョットの原則をくり返し引いた。135年前にロンドンの銀行家が書いた条件が、そのまま危機対応の議論の枠組みになったのである。『エコノミスト』のイギリス政治のコラムは、いまも「バジョット」の名で書かれている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1826年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →