人物

富田勢源

Toda Seigen
16世紀前半 – ?
朝倉氏重要度 2

概要

越前朝倉氏に仕えた中条流の剣豪。眼を病んで家督を弟に譲り、短い薪で神道流の剣士を倒した話で知られる。

本文

富田勢源は、戦国時代に越前の朝倉氏に仕えた剣術家である。冨田とも書き、読みは「とだ」とされる。名は五郎左衛門といい、のちに頭を剃って勢源と号した。生まれた年も亡くなった年も分かっていない。

富田家は剣術の家だった。祖父の富田長家が、大橋高能という人から中条流を学んだ。中条流は室町時代の初めに中条兵庫助長秀が開いたとされる流派で、短い太刀を使う小太刀の技で知られる。勢源は長家の子・景家の長男として生まれ、この流儀を受け継いだ。朝倉氏は越前を百年余り治めた戦国大名で、城下の一乗谷は戦国時代の北陸でいちばん栄えた町の一つだった。戦乱の京から公家や文化人が身を寄せたことでも知られる。その朝倉家中で、富田家は剣を教える家として重んじられた。

ところが勢源は眼を病み、頭を剃って家督を弟の景政に譲った。このため後世「盲目の剣士」と呼ばれるが、どの程度見えなかったのかは分からない。眼を病んだ剣士が名人として語られたことは、目に頼らず気配で相手を読むという剣の理想と結びつき、後の時代の読み物や漫画で好んで描かれることになった。家を退いた後も、剣の名は諸国に知られていた。

勢源の名をいちばん広めたのは、美濃での試合の話である。伝えによれば、勢源が美濃の朝倉成就坊のもとに身を寄せていたとき、神道流の使い手・梅津某に試合を挑まれた。神道流は、15世紀に下総の香取で飯篠長威斎が開いたとされる流派で、戦国時代には東国を中心に広く学ばれていた。美濃の国主で斎藤道三の子にあたる斎藤義龍がこれを取り持ち、試合は家臣の武藤淡路守の屋敷で行われたという。勢源は長さ一尺二、三寸(40センチ足らず)の薪に皮を巻いたものを持って向かい、一撃で梅津を倒したとされる。1560年ごろのこととされるが、江戸時代の武芸書に伝わる話で、細部まで確かとは言えない。義龍は1561年に病で世を去っており、試合があったとすればそれより前のことになる。短い得物で長い刀を制したこの話は、小太刀を重んじる中条流の考え方をよく表すものとして語り継がれてきた。

勢源の流儀は、のちに富田流と呼ばれるようになった。家を継いだ弟の景政は、娘婿に富田重政を迎えた。重政は「名人越後」と称された剣の達人で、前田利家に始まる加賀の前田家に仕え、大きな知行を受ける重臣になった。富田流は剣術だけでなく、前田家の家臣としても栄えたのである。

門人の系譜からは、ほかの流派も生まれた。勢源の門人とも景政の門人ともいわれる鐘捲自斎は、一刀流の祖・伊東一刀斎の師とされる。東軍流の祖・川崎鑰之助も勢源に学んだと伝えられる。「とだせいげん」と読める字の違う名を開祖に掲げる流派は多く、それらもおそらく勢源のことだろうといわれている。一刀流はのちに、小野忠明が徳川秀忠の剣術師範となったことで、柳生新陰流と並ぶ将軍家の流儀になった。勢源の系譜は、遠回りながら江戸の剣術の本流にまでつながっている。

勢源の名は、宮本武蔵と巌流島で戦った佐々木小次郎の伝承にも出てくる。江戸時代の伝記『二天記』は、小次郎を越前の生まれで富田勢源の門人とし、師の小太刀の稽古の相手を務めるうちに長い太刀の技を身につけたとする。小次郎の経歴には諸説あり、これも確かめようのない話である。

勢源が仕えた朝倉氏は、1573年に織田信長に攻められて滅んだ。城下の一乗谷は焼かれ、長く田畑の下に埋もれていたが、昭和の発掘で町並みが掘り出され、いまは一乗谷朝倉氏遺跡として知られている。勢源がその後どうなったのかは伝わっておらず、どこで亡くなったのかも分からない。小太刀で長い太刀を制するという中条流の考え方は、富田流を通じて後の剣術に受け継がれた。

動画(1)

戦国最強の盲目剣士【富田勢源】の戦いがシグルイ過ぎる「武藤淡路守屋敷の決闘」剣術家がリアルに解説#剣豪武人猛将シリーズ非株式会社いつかやる木刀の達人だった盲目の剣豪の壮絶な決闘の真相を解説する
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1525年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →