シモ・ヘイヘ
概要
冬戦争でソ連軍と戦ったフィンランドの狙撃兵。照準眼鏡を使わず数百人を倒したとされ、「白い死神」と呼ばれた。
本文
シモ・ヘイヘは1905年12月17日、フィンランド南東部、ヴィープリ州ラウトヤルヴィの小さな集落で、農家の8人きょうだいの7番目として生まれた。生まれた時代のフィンランドはロシア帝国の大公国で、彼が11歳のときフィンランドの独立を迎えている。少年時代から農作業を手伝い、狩りとスキーを好んだ。
17歳で民間の防衛組織である自衛団に入り、射撃の大会で次々に賞をとった。家は射撃の賞品で埋まっていたという。1925年から兵役に就いたが、狙撃兵としての正式な訓練を受けたのは、戦争の前年の1938年になってからだった。身長は160センチほどと小柄だった。
1939年11月30日、ソ連がフィンランドに攻め込み、冬戦争が始まった。ヘイヘは第34歩兵連隊の第6中隊に属し、国境に近いコッラーの戦いに加わった。その冬は記録に残るほどの寒さで、気温は零下20度から40度にまで下がった。全身を白い服で覆った彼に対し、ソ連兵の多くは雪の中で目立つ服のままだった。赤軍の準備の悪さには、ヨシフ・スターリンの大粛清で多くの指揮官が除かれていたことも響いていた。

彼は照準眼鏡を使わず、銃身の照門と照星だけで狙った。照準眼鏡を使うと頭を数センチ高く上げねばならず、寒さでレンズが曇り、日の光が反射して居場所を知られるからである。夜明け前に用意した陣地に入り、日が暮れるまで雪の穴でじっと動かなかった。銃口の前の雪を固めて、撃ったときに雪が舞い上がるのを抑え、息が白く見えないよう口に雪を含んでいたとも伝えられる。
撃った数ははっきりしない。師団長が1940年2月17日に記念の銃を贈ったときの記録では、小銃による確認戦果は219人で、従軍牧師の日記には3月7日までに259人とある。2017年に見つかった本人の手記には、およそ500人と書かれていた。一方で、遺体を確かめにくかったことなどから、「200人余り」とみるフィンランドの歴史家もいる。戦果は戦時の宣伝にも使われた。「白い死神」というあだ名も、ソ連兵が付けたとされてきたが、フィンランド側の宣伝から生まれたという見方がある。
1940年3月6日、彼はソ連兵の炸裂弾で顔を撃たれ、左の下あごを砕かれた。死んだと思われて遺体の山に置かれたが、足が動いたのに気づいた者がいて病院に運ばれたという。意識が戻ったのは1週間後の3月13日、戦争が終わったその日だった。新聞で自分が戦死したと読んだ彼は、誤りを正す手紙を送った。同じ年、マンネルヘイム元帥は彼を下士官のいちばん下の階級から一気に少尉へ昇進させた。
傷の治療には何年もかかり、顔には一生傷跡が残った。続く継続戦争で前線に戻ることを願い出たが、許されなかった。生家の農場は講和でソ連に譲った土地にあったため、彼は国境に近いルオコラハティで暮らしを一から立て直した。農業を営み、ヘラジカ猟と猟犬の育成で知られ、ケッコネン大統領の猟に加わったこともある。生涯独身で、戦争について自分から語ることはほとんどなかった。
1998年、どうやって腕を磨いたのかと聞かれ、彼は「練習だ」とだけ答えた。2001年の独立記念日の取材では、多くの命を奪ったことを悔いるかと問われ、命じられたことをできる限りうまくやった、皆がそうしなければフィンランドは無かった、と答えている。2002年4月1日、退役軍人の療養施設で96歳で死んだ。その死後、ロシアのウクライナ侵攻とフィンランドとスウェーデンのNATO加盟をきっかけに、彼への関心は再び高まっている。