人物

小野忠明

Ono Tadaaki
1565年 – AD1628年12月2日(享年63・推定)
江戸幕府重要度 2

概要

伊東一刀斎の高弟で一刀流を継ぎ、徳川秀忠の剣術指南役となった剣豪。旗本小野家の祖。

本文

小野忠明は、戦国時代の末から江戸時代の初めにかけての剣豪で、徳川将軍家の剣術指南役を務めた旗本である。伊東一刀斎の高弟として一刀流を受け継ぎ、柳生宗矩の柳生新陰流と並んで将軍家の剣術を担った。初めは神子上典膳と名乗り、のちに母方の姓である小野を名乗って小野次郎右衛門忠明と改めた。

生まれは1565年とされるが、確かではない。生地は安房国朝夷郡丸村の神子上(いまの千葉県南房総市)で、先祖は大和の十市氏の出と伝え、上総に移って安房の里見氏に仕える郷士となった家である。祖父は里見氏の内紛の戦いで討ち死にしたと伝わる。忠明も若いころは里見氏の家来で、1589年に里見義康の軍に加わって上総の万喜城を攻め、敵将の正木大膳と一騎討ちをしたが勝負がつかなかったという話が軍記に残る。

一刀斎への入門には有名な話がある。武者修行で上総を訪れた一刀斎に典膳が挑み、真剣で向かったところ、薪を持っただけの一刀斎にたちまち刀を奪われ、木刀に持ち替えても数十回打ち落とされたという。翌日弟子入りを願い、師とともに諸国を巡ったと伝えられる。一刀斎の後継の座をかけて兄弟子の善鬼と立ち合い、これを倒して一刀流の秘伝と瓶割刀を授けられたという話もよく知られるが、場所や経緯には異説が多く、どこまで事実かは分からない。

一刀流は、一つの太刀から万の太刀が生まれるという「一刀即万刀」を説き、相手の打ち込みに合わせて上から斬り落として勝つ「切落し」を技の根本に置いた。師の一刀斎は忠明に流儀を託した後、行方が知れなくなったと伝えられ、生没年も分かっていない。一刀斎自身の記録がほとんど残らないため、一刀流が後世に伝わったのは、忠明が将軍家の指南役となり、旗本の家として流儀を代々伝えたことによるところが大きい。

1593年、忠明は徳川家康に200石で召し抱えられ、のちの2代将軍徳川秀忠の剣術指南役となった。名の「忠」の字は秀忠からもらったともいわれる。召し抱えのきっかけについては、村に立てこもった人殺しの武芸者を一太刀で倒したという話や、柳生宗矩と立ち合って燃えさしの薪で圧倒したという話が伝わるが、後者は一刀流の優位を説くために後から作られた話とされる。

忠明は剣だけでなく武士としても戦場に出た。1600年、関ヶ原の戦いに向かう秀忠の軍に従って信濃の上田城を攻め、真田信繁(幸村)の父の昌幸が守る城の攻防で活躍して「上田七本槍」の一人に数えられた。ところがこのとき軍規に背いたとして処罰され、真田信之に預けられる身となった。翌1601年に許されて400石に加増され、のちには上総の山辺郡と武射郡で600石を知行した。大坂の陣にも冬の陣では使番、夏の陣では道具奉行として加わっている。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

気性は激しかったようだ。大坂の陣が終わった翌年の1616年、旗本の集まりの席で、夏の陣で同じ道具奉行を務めた石川市左衛門ら4人について戦場で見苦しい振る舞いがあったとそしり、争いになった。4人は諸大名の前で訴状を出すに至り、秀忠も放っておけなくなった。双方から事情を聞いたうえで、忠明と4人はそろって閉門を命じられている。剣の腕では並ぶ者がなかったとされる一方、出世が思うように進まなかったのはこの性分のためだとも言われる。

晩年は知行地の下総国埴生郡寺台村(いまの千葉県成田市)に退き、1628年に亡くなった。墓は成田市の永興寺にあり、千葉県の史跡に指定されている。寺には忠明夫妻の木像も伝わる。跡は嫡男の忠常が継いで800石となり、小野家は旗本として明治維新まで続いた。

忠明は小野派一刀流の開祖とされることが多いが、本人がそう名乗ったわけではない。子の忠常の系統が小野派一刀流を名乗り、弟とも子ともいわれる伊藤忠也の系統が忠也派一刀流となった。一刀流の流れは江戸時代を通じて広がり、幕末の千葉周作の北辰一刀流もその系譜から生まれている。小野派から分かれた中西派一刀流が竹刀と防具を使う稽古を広めたことで、この流れはのちの剣道にも大きな影響を残した。

動画(1)

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