人物

オリガ

Olga of Kiev
890年頃 – AD969年7月11日(享年79・推定)
キエフ・ルーシ重要度 2

概要

キエフ大公イーゴリの妃。夫を殺したドレヴリャーネ族に苛烈な復讐をし、幼い子に代わって国を治めた。ルーシで初めて洗礼を受けた君主。

所属

キエフ・ルーシ

本文

オリガは、10世紀にキエフを都としたキエフ・ルーシの大公イーゴリの妃である。生まれた年はわからず、890年ごろから925年ごろまで、研究者によって幅がある。ルーシ最古の年代記である『原初年代記』は、彼女をヴァリャーグ(スカンディナヴィアから来た人々)の出で、北方のプスコフの生まれとしている。オリガという名も、北欧の女性名ヘルガがスラヴ語風になったものと考えられている。

夫のイーゴリは、ルーシの王朝の祖とされるリューリクの子と伝えられ、先代のオレグのあとを継いでキエフを治めた(ルーシの成立)。二人のあいだには、のちの大公スヴャトスラフが生まれた。

キエフの西の森林地帯には、ドレヴリャーネと呼ばれる部族が住んでいた。彼らはキエフに貢ぎ物を納めていたが、その関係は不安定だった。945年、イーゴリは貢納を取り立てるためにドレヴリャーネの地へ向かい、いったんは貢ぎ物を受け取った。ところが帰り道、それでは足りないと考えたイーゴリは、わずかな供回りだけを連れて引き返し、さらに取り立てようとした。怒ったドレヴリャーネはイーゴリを殺した。東ローマの歴史家レオン・ディアコノスは、イーゴリが二本の木に縛られて引き裂かれたと書いているが、これは古代の伝説を借りた誇張ではないかとも言われる。

息子のスヴャトスラフはまだ三歳ほどで、オリガが代わって国を治めることになった。キエフ・ルーシで初めての女性の統治者である。『原初年代記』は、このあとの彼女の復讐を詳しく語っている。

ドレヴリャーネは、夫を失ったオリガを自分たちの公マルに嫁がせようと、20人の使者を舟でキエフへ送った。オリガは縁談を喜ぶふりをして、明日は舟に乗ったまま担がれて来るようにと言った。翌日、キエフの人々は使者たちを舟ごと担いで運び、前日に掘らせておいた穴へ投げ込んで、生きたまま埋めた。オリガは穴をのぞき込み、もてなしはお気に召したかと尋ねたという。

オリガは続けて、ドレヴリャーネの最も身分の高い者たちを迎えによこすよう求めた。何も知らずにやって来た彼らに、オリガは湯浴みを勧め、浴場に入ったところで戸口から火をつけて焼き殺した。さらに、夫の墓の前で弔いの宴を開きたいと伝えて少しの供とともにドレヴリャーネの地へ行き、墓の前で泣いて宴を開いた。ドレヴリャーネが酔いつぶれると、供の者に命じて殺させた。年代記はこの夜に5000人が殺されたと記す。

翌年、オリガは軍を率いてドレヴリャーネを攻め、夫が殺された町イスコロステン(いまのウクライナのコロステン)を囲んだ。包囲は一年たっても落ちなかった。オリガは、復讐はもう十分に果たしたので、家ごとに鳩3羽と雀3羽を差し出せば囲みを解くと持ちかけた。町の人々が喜んで鳥を差し出すと、オリガは鳥の一羽一羽に硫黄を布で結びつけ、夜になって火をつけて放した。鳥は町の巣へ帰り、家々は一度に燃え上がった。逃げ出した人々は殺されるか奴隷にされ、残った者は貢納を課された。

これらの話には、民話によく見られる型が重なっていて、どこまで実際に起きたことかはわからない。それでもオリガがドレヴリャーネを屈服させ、その地をキエフの支配の下に置いたことは確かだと考えられている。

復讐のあと、オリガは国の仕組みを整えた。それまでの貢納は、大公が毎年冬に従者を連れて各地を回り、力ずくで取り立てるものだった。イーゴリが殺されたのも、その取り立ての最中である。オリガは貢ぎ物の量と納める場所を定め、各地にポゴストと呼ばれる拠点を置いた。ポゴストは貢納を集める役所であると同時に、交易の場にもなり、広い土地を一つの国として結びつける役割を果たした。

950年代、オリガは東ローマ帝国の都コンスタンティノープルを訪れ、洗礼を受けてエレナという名をもらった。皇帝コンスタンティノス7世が残した宮廷の儀式の記録にも、ルーシの女君主の訪問が書かれている。年代記は、皇帝が彼女の美しさに求婚したが、オリガは皇帝に洗礼の名付け親になってもらったうえで、名付け親とは結婚できないと言って退けた、という話を伝えているが、これは後世の脚色と見られている。

オリガはルーシの君主として初めてキリスト教徒になったが、息子のスヴャトスラフは母の勧めを受け入れず、異教の神々を信じ続けた。成長したスヴャトスラフが遠征に出ているあいだ、オリガはキエフを守り、968年に遊牧民ペチェネグが町を囲んだときも籠城を率いた。翌969年の7月11日に世を去った。

ルーシが国としてキリスト教を受け入れたのは、孫のウラジーミル1世の代、988年ごろのことである(キエフ・ルーシの改宗)。オリガはその先駆けとして、のちに正教会の聖人となり、「使徒に等しい者」と呼ばれた。祝日は彼女の命日の7月11日である。

動画(1)

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