岡田以蔵
概要
土佐勤王党の剣客。京で天誅と称する暗殺に加わり「人斬り以蔵」と呼ばれ、捕らえられて斬首された。
所属
土佐藩本文
岡田以蔵は、天保9年1月20日(1838年2月14日)、土佐国香美郡岩村(いまの高知県南国市)に、郷士岡田義平の長男として生まれた。諱は宜振。家は二十石あまりの郷士で、のちに高知城下の七軒町に移り住んだ。弟の啓吉も、のちに兄とともに土佐勤王党に加わっている。
剣は武市瑞山(半平太)に師事し、中西派一刀流の麻田直養にも学んだ。安政3年(1856年)9月、武市とともに江戸に出て、桃井春蔵の道場士学館で鏡心明智流を修め、翌年に帰国した。万延元年(1860年)からは武市に従って中国・九州で武者修行をし、豊後の岡藩では直指流を学んだ。以蔵の家では旅費の工面が苦しいだろうと気づかった武市が、岡藩の藩士に以蔵の世話を頼んでいる。
文久元年(1861年)8月、武市が尊王攘夷を掲げて土佐勤王党を結成すると、以蔵も加わった。翌文久2年(1862年)4月、土佐藩の参政吉田東洋が勤王党の手で暗殺され、藩の主導権は一時勤王党の側に傾く。同年6月、以蔵は藩主の参勤の列の護衛に選ばれ、武市らとともに京へ上った。
京で以蔵は、天誅と称する暗殺に加わっていく。文久2年8月、吉田東洋の暗殺を調べていた土佐藩の下横目井上佐市郎を、仲間とともに大坂で絞め殺し、道頓堀川に投げ込んだ。閏8月には、越後出身の志士本間精一郎を、薩摩の田中新兵衛らとともに斬った。さらに安政の大獄で志士の摘発に手を貸した目明しの猿の文吉を、仲間と三条河原に連れ出して殺し、晒した。こうした所業から、以蔵はのちに「人斬り以蔵」と呼ばれるようになる。同時代の同志からは「天誅の名人」と呼ばれていた。
ただし、以蔵が関わったとされる事件のすべてが確かなわけではない。安政の大獄を指揮した長野主膳の妾村山たかの子、多田帯刀が殺された文久2年11月、以蔵は勅使の副使姉小路公知の護衛として江戸にいた。この事件には関わっていないことになる。京都町奉行所の与力らが近江の石部宿で殺された事件や、儒者池内大学の暗殺も、以蔵の加担を疑う見方がある。「幕末の四大人斬り」という呼び名そのものが、後の小説や芝居が広めたものである。
文久3年(1863年)1月、以蔵は脱藩して江戸に出て、長州の高杉晋作のもとに身を寄せた。その後、坂本龍馬の紹介で勝海舟の護衛を務めたこともある。勝の談話集『氷川清話』によれば、京で三人の刺客に襲われたとき、以蔵が一人を斬り捨て、一喝して残りの二人を追い払った。後日、勝が人を斬るのを好むのはよくないとたしなめると、以蔵はあのとき自分がいなければ先生の首は飛んでいたと言い返し、勝はこれには一言もなかったと語っている。以蔵が持っていたと伝わるフランス製の回転式拳銃は、勝から贈られたものとされ、弟の子孫の家に伝わった。
やがて以蔵は同志と疎遠になる。文久3年8月の八月十八日の政変で尊攘派は京を追われ、土佐でも前藩主の山内容堂が勤王党の弾圧に乗り出した。元治元年(1864年)、以蔵は無宿の鉄蔵の名で、商家への押し借りの罪により京で捕らえられた。入墨のうえ京から追放されたところを、土佐藩の役人に捕らえられ、土佐へ送られた。
土佐の獄には、武市をはじめ勤王党の同志がすでに捕らえられていた。以蔵は拷問に耐えられず、自分の罪と、天誅に関わった仲間の名を白状した。武市は獄中の手紙で以蔵を「日本一の泣きみそ」と酷評している。この自白で新たな逮捕者が相次ぎ、勤王党が崩れるきっかけとなった。獄の内外の同志のあいだでは、以蔵に毒を盛る相談まで持ち上がったが、武市らが強引な毒殺に同意せず、以蔵の家族の了承も得られなかったため、実行されなかったと見られている。毒入りの弁当を食べても平気だったという有名な場面は、司馬遼太郎の小説の創作である。
慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、以蔵は打ち首となり、首は晒された。数え28歳。同じ日、武市瑞山も切腹を命じられている。辞世として「君が為め尽す心は水の泡消にし後は澄み渡る空」が伝わる。墓は高知市の真宗寺山にあり、宜振の名で葬られている。
以蔵の姿を伝える確かな写真や肖像は残っていない。出回っている写真の多くは別人のものである。自白して同志を巻き込んだことで、明治以後も顕彰から外され、靖国神社にも祀られなかった。1983年に高知県護国神社に合祀され、2019年には志士を顕彰する南海忠烈碑に名が刻まれた。粗暴で教養の無い貧しい若者が出世のために汚れ仕事を引き受けたという像は、真山青果の戯曲や司馬遼太郎の『人斬り以蔵』(1964年)で形づくられたものである。実際には一般の郷士の子として教育を受け、天誅も志願者が多く集まるなかで仲間と相談しながら行っていたことが分かってきている。