小田氏治
概要
常陸の戦国大名で小田氏最後の当主。居城の小田城を何度も奪われては取り返し「常陸の不死鳥」と呼ばれる。
本文
小田氏治は、常陸(いまの茨城県)の南部を治めた戦国大名で、小田氏の15代にして最後の当主である。小田氏は鎌倉幕府の御家人八田知家に始まる名門で、関東八屋形の一つに数えられた。氏治は居城の小田城(いまのつくば市)を何度も奪われながら、そのたびに取り返そうとした。小田城を9度奪われて8度取り戻したとも言われ、「常陸の不死鳥」とも、「戦国最弱」とも呼ばれる。
生まれは天文3年(1534年)とされるが、享禄4年(1531年)とする説もある。父は14代当主の小田政治。元服のとき古河公方足利晴氏から一字をもらい、氏治と名乗った。天文15年(1546年)、父に従って行方郡の手賀氏を攻めた唐ヶ崎の戦いで初陣を飾ったが、小田勢は敗れた。同じ年の河越夜戦では、小田氏は敗れた関東管領上杉・古河公方の側についており、北条と佐竹が伸びるなかで小田氏の勢いにはかげりが見え始めていた。
天文17年(1548年)、父の死で家督を継いだ。北には常陸太田の佐竹氏、西には下総の結城氏が勢いを伸ばしていた。弘治2年(1556年)、北条から援軍を得た結城政勝が小田領に攻め込み、氏治は敗れて小田城を一時失った。
永禄3年(1560年)、越後の上杉謙信が関東に出陣すると、氏治もほかの関東の諸将とともに謙信に従い、翌年の小田原城攻めに加わった。しかし間もなく北条方に寝返る。永禄7年(1564年)、佐竹義昭らから氏治の背信を訴えられた謙信は、氏治の予想を超える速さで小田領に攻め込み、山王堂の戦いで小田勢を破った。氏治は多くの将兵を失い、小田城を奪われた。
ところが翌永禄8年(1565年)12月、佐竹義昭の死後の混乱を突いて、氏治は小田城を取り返す。翌年、謙信が再び出兵すると降伏を申し出たが、謙信の臼井城攻めが失敗すると、またも北条方に戻った。上杉と北条という大きな力のあいだで、どちらにつくかを変えながら家を保とうとしたが、そのたびに近くの佐竹氏との対立は深まった。
永禄12年(1569年)、佐竹義重は太田資正・真壁久幹らを動員して小田領に大攻勢をかけた。11月、氏治は資正の片野城を攻めようと筑波山を越えて出たが、手這坂で反撃にあって大敗し、小田城への道を断たれた(手這坂の戦い)。小田城は太田資正に与えられ、氏治は土浦城に退いた。資正はかつて武蔵の岩付城の主で、北条に城を追われて佐竹に身を寄せていた人物である。
その後も戦いは続いた。天正元年(1573年)から翌年にかけて、佐竹勢は藤沢城、土浦城を次々に攻め、氏治は夜にひそかに土浦城を抜け出した。それでも小田氏の家臣団は武勇に優れ、北条氏政の軍の助けもあって土浦城を取り戻す。氏治はその後も小田城の奪回を目指して戦い続け、天正の初めごろに出家して天庵と号した。北条の援助なしには佐竹に対抗できなくなっていたが、佐竹もまた小田氏を滅ぼしきれなかった。
天正18年(1590年)1月、氏治は小田城の外の樋ノ口まで攻め寄せ、優勢に戦いを進めて城の土塁に迫った。しかし太田資正が急いで駆けつけたため、奪回はならなかった。この年は豊臣秀吉が北条氏を攻めた年である(秀吉の天下統一)。氏治は北条に助けを求めたが北条にその余裕は無く、小田原に参陣しなかったうえ、豊臣方の佐竹氏に兵を向けていたことを咎められ、所領をすべて取り上げられた。大名としての小田氏はここで終わった。
翌天正19年(1591年)、氏治は奥州に向かう秀吉を会津まで追って詫びを入れ、許された。娘が徳川家康の次男結城秀康の側室となっていた縁で、秀康の客分として300石を与えられた。秀康が越前に移ると嫡男の守治とともに従い、慶長6年閏11月13日(西暦では1602年の初め)に死んだ。遺体は越前の永平寺に葬られ、のちに常陸の新善光寺に移された。
「戦に弱い武将」として語られることが多いが、宿敵だった佐竹義昭は上杉謙信に宛てた手紙で、氏治は近ごろ弓矢の道は衰えたものの、源頼朝以来の名家で、本人も人並み以上の才覚を持ち、譜代の家臣に名のある者が多いので家名を保っている、と書いたと伝わる(『関八州古戦録』)。大敗して城を失っても1年ほどで取り返したことは、家臣団の結束の強さと氏治の力量を示すものと見る評価もある。連歌を好んだことでも知られる。