ネイサン・メイアー・ロスチャイルド
概要
ロスチャイルド家のロンドンの店を築いた銀行家。ナポレオン戦争で英国の戦費の送金を担い、巨富を得た。
本文
ネイサン・メイアー・ロスチャイルドは1777年、神聖ローマ帝国の自由都市フランクフルトのユダヤ人街に生まれた。父マイアー・アムシェル・ロスチャイルドは古銭商から身を起こし、ヘッセン=カッセル方伯の財務に食い込んだ商人で、ネイサンはその5人の息子の3番目だった。兄弟はのちにフランクフルト、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリに分かれて店を構え、互いに連絡を取り合いながら、国境を越えた金融の網を作ることになる。
1798年、21歳のネイサンはイギリスのマンチェスターに渡り、綿織物の買い付けと金融の商売を始めた。当時のマンチェスターは産業革命の中心で、布を大陸へ送る仕事は大きな利益を生んだ。やがて彼はロンドンに移り、1804年ごろからロンドンの取引所で為替手形や国債を扱うようになる。1809年からは金地金の取引に力を入れ、これがのちの銀行N・M・ロスチャイルド・アンド・サンズの柱となった。
転機はナポレオン・ボナパルトとの戦争だった。1811年ごろから、ネイサンは英国政府の兵站総監ジョン・チャールズ・ヘリーズと組み、イベリア半島で戦うウェリントン軍への送金を請け負った。戦場へ大量の現金を、敵地を避けて確実に届けるには、大陸に散った兄弟の店が役に立った。ナポレオンのロシア遠征が失敗に終わったあとは、イギリスが同盟国へ払う補助金の送金も担い、為替の売買と手数料で大きな利益を積み上げた。

動画でも語られる「ワーテルローの逆売り」は、この時期の話である。1815年、ワーテルローの戦いの勝敗をいち早く知ったネイサンが、わざとコンソル公債を売って相場を暴落させ、底値で買い戻して巨利を得た、という筋書きだ。しかしこの物語は、1846年にフランスで「サタン」の筆名で書かれたロスチャイルド攻撃の小冊子に始まり、のちの通俗本や1934年のアメリカ映画で膨らまされたものとされる。歴史家ニーアル・ファーガソンは、一家の使いが早く知らせを届けたことは認めつつ、一家はむしろ戦争が長引く前提で動いていて、急な終戦でかえって損失を出したと論じている。伝書鳩で知らせを受けたという話も、ロスチャイルド家の文書館は、騎馬の使いを乗り継いだ可能性が高いとしている。ジャーナリストのブライアン・キャスカートは、ロンドンで最初に勝利を知ったのはネイサンではなく、6月21日の夜にウェリントンの使者から報告を受けた陸軍大臣バサースト卿だったと論じている。
戦後、ネイサンの地位はさらに高まった。1818年にはプロイセン政府に500万ポンドの借款を手配し、国債の引き受けが銀行の本業となった。1825年から翌年にかけての金融恐慌では、イングランド銀行(イングランド銀行の設立)が硬貨不足に陥ったとき、十分な金貨を用立てて危機を避けさせた。1822年にはオーストリア皇帝から兄弟そろって男爵の位を受けたが、ネイサン自身はその称号を名乗らなかった。1824年には義兄弟のモーゼス・モンテフィオーレとともに保険会社を興している。
1833年にイギリスの奴隷制廃止法が成立すると、政府は奴隷所有者への補償金に充てるため、ネイサンとモンテフィオーレから1500万ポンドを借りた。ネイサン自身も、カリブ海のアンティグアの農園の抵当権者として補償金を受け取っていたことが、ロンドン大学の調査で分かっている。1836年6月、息子ライオネルの結婚式に出るためフランクフルトへ向かったが、膿瘍が悪化して帰国できず、7月28日に58歳で死んだ。遺体はロンドンに運ばれて葬られた。
ネイサンの名は、その後もロスチャイルド家が世界の金融を牛耳っているという陰謀論の中で語られ続けた。ワーテルローの逸話は、その代表的な材料である。実際の彼の強みは、兄弟の店をつないだ情報と送金の網、そして国家の借金を引き受けられるだけの資本にあった。伝説よりも地味だが、戦争と国家財政と金融が深く結びついていく近代の入口を示す人物である。