望月カズ
概要
朝鮮戦争の後のソウルで、独力で100人を超える孤児を育てた日本人女性。「38度線のマリア」と呼ばれた。
本文
望月カズは、朝鮮戦争の後の韓国で、生涯に133人の孤児を育てたとされる日本人女性である。理髪の仕事で孤児たちを養ったことから「愛の理髪師」とも、また「38度線のマリア」とも呼ばれた。日本人として韓国で生き、韓国の勲章を受けた人物である。
1927年(昭和2年)8月3日、東京の杉並に生まれた。父の顔を知らずに育ち、4歳のころ母に連れられて満洲へ渡った。満洲事変が起きた時期にあたる。6歳で母を亡くして孤児になり、その後は農家などに売られて働かされながら各地を転々としたという。17歳のとき、朝鮮北部の城津で知り合った永松という夫妻の戸籍上の養子となり、日本の国籍を得た。これらの幼いころの話は、主に本人の手記に拠っている。

1945年、第二次世界大戦が終わると、カズは日本へ引き揚げた。しかし身寄りも無く、焼け野原になった祖国に失望して、もう一度満洲へ戻ろうとしたという。ところが朝鮮半島は北緯38度線で南北に分けられ、線を越えることができなかった。カズはソウルにとどまって暮らすことになる。
1950年に朝鮮戦争が始まると、ソウルは何度も戦場になった。その戦火のなかで、カズは胸を撃たれて倒れた女性に抱かれ、血まみれになっていた男の子を助けたという。これをきっかけに、身寄りを失った子どもたちを自分の手で育てると決めた、と伝えられている。

戦争が終わると、カズはソウル市内にバラックを建て、孤児たちと暮らしはじめた。支援はほとんど無く、肉体労働を重ね、道端で髪を刈り、軍手を作り、豆炭を売り、ときには自分の血を売って子どもたちを食べさせたという。1963年には理髪師の資格を取り、「愛の理髪師」として知られるようになった。
その名は次第に韓国でも日本でも広まった。1964年にはソウル特別市の名誉市民となり、翌1965年に出した手記『この子らを見捨てられない』はよく読まれ、これをもとにした映画『愛は国境を越えて』は日本でも上映された。1965年は日韓基本条約が結ばれ、両国の国交が開かれた年でもある。1967年には光復節に第1回の光復賞を受け、1971年には朴正熙大統領から冬柏章の勲章を授けられた。叙勲の式に普段着と下駄で現れ、靴に履き替えるよう言われても「ほかに何も持っていない。これで駄目なら帰る」と断ってそのまま式に臨んだ、という逸話が残る。1976年には日本で吉川英治文化賞を受けている。
気性は激しく、人の意見にはほとんど耳を貸さなかったとされる。暮らしの苦しさを見かねた周囲から、孤児院を公の施設に移すよう勧められても拒み続けた。日本に対する感情がまだ厳しかった時代の韓国で、ふだんから和服やもんぺで通し、端午の節句には遠慮なく鯉のぼりを立てたともいう。日本人であることを隠さないまま、韓国の子どもたちを育てたのである。
長年の重労働で体は次第に弱った。死期を悟ってからは、死ぬときは母国の土の上で死にたい、富士山の見えるところに眠りたい、と語るようになったという。日本人の弁護士夫妻の尽力で日本の戸籍は取り戻せたが、帰国はかなわず、1983年11月12日、ソウルの自宅で亡くなった。56歳だった。
1985年、静岡県の寺で日韓の関係者約150人が立ち会って分骨式が行われ、遺骨の一部が富士山を望む地に葬られた。墓碑には「日韓の孤児130余人を養育」と刻まれている。育てた子どもの数には133人のほかにも幅のある数字が伝わるが、国境を越え、たった一人の手で戦争の孤児たちを育てた生涯は、日韓双方で語り継がれている。