メルネプタハ
概要
ラムセス2世の13番目の息子。父が90歳まで生きたので、60代で即位した。リビア人と海の民を退け、その碑にイスラエルの名を刻んだ。ミイラはカイロにある。「出エジプトのファラオ」に擬されることがある。
所属
エジプト新王国関わったできごと(1)
メルネプタハ碑BC1208年 · 王本文
メルネプタハ(メルエンプタハとも書く)の名は「プタハに愛された者」を意味する。父は新王国の大王ラムセス2世で、メルネプタハはその13番目の息子だった。ラムセス2世は66年あまり王位にあり、90歳前後まで生きたとされる。そのあいだに、世継ぎとされた兄たちが次々に先立った。メルネプタハが王位に就いたのは紀元前1213年ごろで、そのとき本人もすでに60歳前後になっていたと考えられている。

即位前から、彼は父の晩年を支える立場にあった。軍の監督を務め、王太子として政務にもかかわっていたとみられる。老いた父の代わりに、国の実務を担っていたのである。
王になったメルネプタハが直面したのは、西からの圧力だった。治世5年目、紀元前1208年ごろ、リビアのリブ族の長メリイが、家族や家畜を連れた大集団でナイルデルタの西へ押し寄せた。これに加わっていたのが、カルナックの碑文がエクウェシュ、テレシュ、ルッカ、シェルデン、シェケレシュと呼ぶ人びとで、「海の国々から来た者」と書かれている。のちに海の民の侵入と青銅器時代の終わりと呼ばれる人びとの、記録に残る早い例である。名前をアカイア人、ティレニア人、リュキア人、サルデーニャ人、シチリア人に結びつける説があるが、確かではない。

戦いは6時間続き、エジプト軍が勝った。碑文は、討ち取った敵の数を数えるため、割礼をしていない者からは男根を、割礼をしていた者からは手を切り取ったと記し、死者は6000を超え、捕虜は数千に上ったと誇っている。メリイは逃げ、リビアの民は以後しばらくデルタを脅かさなかった。
この勝利を記念した碑の一つが、1896年にテーベでフリンダーズ・ペトリーが見つけたメルネプタハ碑である。高さ3メートルを超える黒い花崗岩の碑で、もとはアメンホテプ3世の碑の裏面を使って刻まれた。大半はリビアとの戦いをたたえる文だが、最後の数行に、カナンの町々とともに「イスラエル」の名が出てくる。「イスラエルは荒らされ、その種はない」という一句で、イスラエルの名がはっきり読み取れる記録としては、知られている限り最も古い。名前には土地ではなく「民」を示す記号が添えられていて、このころすでにカナンにイスラエルと呼ばれる集団がいたことが分かる。ただ、メルネプタハ自身がカナンへ遠征したのかどうかは、はっきりしない。
メルネプタハは、遠いヒッタイトにも目を配っていた。父の代にエジプト・ヒッタイト平和条約を結んだ相手である。碑文には、飢えに苦しむヒッタイトの国を生かすため、船で穀物を送ったという一節がある。青銅器時代の終わりが迫り、東地中海全体が揺らぎ始めていた時期だった。南のヌビアでも反乱があり、これを鎮めた記録も残る。

彼の治世はおよそ10年で終わった。王家の谷に造られた墓(KV8)は大きく、石棺が入れ子に収められていた。だがミイラはそこには残っていなかった。後の時代に墓荒らしから守るため、神官たちが王たちのミイラを別の墓へ移していたからである。1898年、アメンホテプ2世の墓(KV35)の隠し部屋から、ほかの王たちのミイラとともにメルネプタハのミイラが見つかった。1907年に包帯が解かれ、調べた解剖学者は、動脈硬化や関節の病、歯の傷みのある老人の体だったと報告した。
ミイラの皮膚が白っぽく見え、塩がふいているようだったことから、彼こそ紅海で溺れた出エジプト(伝承)のファラオだという俗説が広まった。だが、塩はミイラ作りに使うナトロンによるもので、どのミイラにも残りうる。そもそもメルネプタハの碑がイスラエルをすでにカナンにいる民として記しているのだから、出エジプトがあったとしてもそれより前でなければならない。父ラムセス2世を出エジプトのファラオとみる説もあるが、出エジプトそのものを示す同時代の記録は、エジプトの側には見つかっていない。

メルネプタハの死後、王位は息子のセティ2世に移ったが、アメンメセスという人物が上エジプトで王を名乗り、王家は割れた。アメンメセスがメルネプタハの息子だったのか孫だったのかについては諸説ある。王朝は女王タウセレトを最後に終わり、次の第20王朝のラメセス3世の時代に、海の民はふたたびエジプトへ押し寄せてくる。
イスラエルの名を刻んだ碑は、いまもカイロのエジプト博物館にある。メルネプタハのミイラは、2021年4月、22人の王と王妃のミイラを新しい国立エジプト文明博物館へ運んだ「ファラオの黄金のパレード」で、夜のカイロの町を移されていった。