ルイ17世
概要
ルイ16世とマリー・アントワネットの次男。革命中タンプル塔に幽閉され、10歳で死んだ。心臓のDNA鑑定で生存説が否定された。
所属
フランス王国本文
ルイ17世は、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの次男である。フランス革命のさなかに家族とともにパリのタンプル塔に幽閉され、父が処刑された後、王党派からは国王とみなされたが、一度も解放されることなく10歳で死んだ。その死をめぐっては生存説が長く語られ、決着がついたのは200年余り後のDNA鑑定によってだった。

1785年3月27日、ヴェルサイユ宮殿で生まれ、ルイ=シャルルと名づけられた。1789年6月、兄の王太子ルイ=ジョゼフが病死し、4歳で王太子となった。その翌月にフランス革命が始まった。10月、パリの民衆がヴェルサイユに押し寄せ、国王一家はパリのテュイルリー宮殿に移された。1791年6月には一家で国外への逃亡を図ったが、ヴァレンヌで捕らえられて連れ戻された。
1792年8月10日、民衆と義勇兵がテュイルリー宮殿を襲い、王権は停止された。国王一家はタンプル塔に幽閉された。ルイ=シャルルは7歳だった。1793年1月21日に父ルイ16世が処刑される(ルイ16世の処刑)と、亡命していた王族や王党派は、この少年をルイ17世として国王と宣言した。

王党派の旗印となった少年を、革命政府は手放さなかった。1793年7月、ルイ17世は母から引き離され、公安委員会が選んだ靴職人アントワーヌ・シモンの夫婦に預けられた。母マリー・アントワネットの裁判に向けては、母を告発する文書に少年が署名させられることまで行われた。母は10月に処刑された。シモン夫婦による虐待は後に王党派によって強く語られたが、どこまで事実かは分かっておらず、誇張されたものとする見方も強い。
1794年1月にシモン夫婦が去ると、少年はほとんど隔離された状態で監禁された。決まった世話係もなく、不潔な部屋に放置されたとされる。恐怖政治が終わった後、訪れた政治家バラスはその放置ぶりを記し、待遇はいくらか改善されたが、少年はほとんど口をきかなくなっていた。1795年5月に重い病に倒れ、6月8日に死去した。検死にあたった医師たちは、結核によるものと判断した。

同じ塔に幽閉されていた姉のマリー・テレーズは、弟の死を知らされないまま生き延びた。1795年12月、捕虜交換の形でオーストリアに引き渡され、一家でただ一人、塔から生きて出た。母と叔母のエリザベートはすでに処刑されていた。彼女はのちに従兄のアングレーム公と結婚し、王政復古でフランスに戻っている。
検死の際、医師のペルタンは少年の心臓をひそかに持ち出して保存した。遺体は共同墓地に葬られ、その場所は分からなくなった。
少年の死は、亡命した王族にとっても革命政府にとっても都合のよいものだった。叔父のプロヴァンス伯は自らをルイ18世と称し、のちの王政復古でその名のまま即位した。一方で、王子はひそかに救い出されて生き延びたという噂が死の直後から広まり、王政復古の時代には40人ほどの「ルイ17世」が名乗り出た。最も有名なのは、ドイツに現れた時計職人カール・ヴィルヘルム・ナウンドルフで、その子孫は長く王子の血筋を主張した。
決着をつけたのは科学だった。ペルタンが持ち出した心臓は、さまざまな人の手を経て保存されていた。ナウンドルフが王子だった可能性は1998年の鑑定で極めて低いとされ、2000年からは心臓そのものと、マリー・アントワネットの遺髪や母方の血縁者のDNAが比べられた。その結果、心臓はルイ17世のものと判定され、2004年6月、歴代のフランス王が眠るサン=ドニ大聖堂に納められた。