ラウレンティウス(聖ラウレンティウス)
概要
3世紀ローマ教会の助祭。皇帝ウァレリアヌスの迫害で殉教した。鉄格子の上で焼かれたという伝承で知られる。
所属
ローマ帝国本文
ラウレンティウスは3世紀のローマ教会で助祭を務めた聖人で、258年、皇帝ウァレリアヌスの迫害で殉教した。伝承では鉄格子の上で火あぶりにされ、そのさなかに「こちら側はもう焼けた、裏返してくれ」と言ったとされる。この逸話から、のちに料理人や消防士の守護聖人とされた。
生まれは225年ごろ、ヒスパニア(現在のスペイン)北東部のウエスカとされるが、確かなことは分からない。伝承では、ギリシア生まれの教師シクストゥスとサラゴサで出会い、ともにローマへ渡った。257年にシクストゥスがローマ司教(教皇シクストゥス2世)になると、ラウレンティウスは助祭に任じられ、やがてローマの7人の助祭の筆頭となった。教会の財産を管理し、貧しい人々に施しを配るのが務めだった。
3世紀半ばのローマ帝国は、外敵の侵入と内乱、疫病で揺れていた。皇帝たちは神々への祭儀で帝国の団結を示そうとし、それに従わないキリスト教徒は危険視された。250年にはデキウスが全住民に供犠を命じ、デキウスの迫害が起きている。ウァレリアヌスも257年に聖職者への圧迫を始め、258年8月の初めには、司教・司祭・助祭を直ちに処刑せよという勅令を出した。カルタゴの司教キプリアヌスの手紙によれば、勅令はキリスト教徒の元老院議員や騎士から身分と財産を奪うことも定めていた。キプリアヌス自身も、翌月にカルタゴで斬首されている。

8月6日、シクストゥス2世はカリストゥスの墓地で礼拝中に捕らえられ、その場で処刑された。伝承によれば、ローマの長官はラウレンティウスに教会の財宝を差し出すよう命じた。彼は3日の猶予を求め、そのあいだに教会の財産をできるかぎり貧しい人々に配ってしまった。3日目、彼は貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人を連れて長官の前に現れ、これこそが教会の宝だと言ったという。4世紀のミラノ司教アンブロシウスが伝える話である。
怒った長官は大きな鉄格子を用意させ、下に炭火をおこして彼を焼いた、というのが広く知られた筋書きだ。しかし歴史家の中には、これを疑う人も多い。勅令の文言はふつう斬首を意味し、4日前に死んだシクストゥスも斬首だった。ラテン語で「苦しんだ(殉教した)」を意味する passus est から一文字が落ち、「焼かれた」を意味する assus est と読まれたのが伝承の起こりだという説もある。死んだのは258年8月10日とされ、遺体はローマの東を通るティブルティーナ街道沿いの地下墓地に葬られた。
迫害はまもなく終わった。260年、ウァレリアヌスはササン朝ペルシアとの戦いで捕虜となり(ローマ皇帝が捕らわれる)、息子ガリエヌスは迫害を取りやめた。半世紀あまりのちにミラノ勅令でキリスト教が公認されると、ラウレンティウスはローマでもっとも敬われる殉教者の一人になった。コンスタンティヌス1世は墓の上に小さな礼拝堂を建てたとされ、そこはのちにサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂となった。

ローマには彼にゆかりの聖堂がいくつもある。殉教の地とされるサン・ロレンツォ・イン・パニスペルナ、鉄格子の遺物を納めるサン・ロレンツォ・イン・ルチーナなどである。8月10日の祝日の前後に見えるペルセウス座流星群は、ヨーロッパで「聖ラウレンティウスの涙」と呼ばれてきた。スペイン王フェリペ2世が建てたエル・エスコリアル修道院も彼にささげられたもので、鉄格子をかたどった平面を持つと言われる。鉄格子を抱えた若い助祭の姿は、ヴァティカン宮殿にフラ・アンジェリコが描いた壁画や、ティツィアーノの『聖ラウレンティウスの殉教』など、多くの絵画に描かれてきた。