ジョン王(欠地王)
概要
プランタジネット朝のイングランド王。大陸の領地の大半を失い、教皇に屈し、諸侯にマグナ・カルタを認めさせられた。
本文
ジョンは、プランタジネット朝(アンジュー朝)の第3代イングランド王である(在位1199〜1216年)。フランスにあった広大な領地の大半を失い、ローマ教皇に屈し、最後は諸侯にマグナ・カルタを認めさせられた。「欠地王」「失地王」と呼ばれ、イングランド史上もっとも評判の悪い王の一人とされる。

1166年12月24日、ヘンリー2世とエレノア・オブ・アキテーヌの末子として生まれた。父ヘンリー2世はイングランドに加えてフランスの西半分に及ぶ広大な領地を持っていたが、それはジョンより上の兄たちに分け与えられ、末子のジョンに与える土地はなかった。そこから「ジョン・ラックランド(土地なしのジョン)」と呼ばれた。日本語の「欠地王」「失地王」はこの呼び名の訳で、のちに実際に領地を失ったこととも重なって定着した。
兄のリチャード1世(獅子心王)が十字軍に出て長く国を空けると、ジョンはフランス王フィリップ2世と結んで王位をうかがったが、帰国したリチャードに許された。1199年にリチャードが戦死すると、甥のアーサーを退けて王位を継いだ。1200年、ジョンはアングレーム伯の娘イザベルと結婚したが、彼女はすでにリュジニャン家のユーグと婚約していた。面目を潰されたリュジニャン家は主君にあたるフランス王に訴え、フィリップ2世はジョンを法廷に呼び出した。ジョンが応じないと、フィリップ2世は1202年、フランス国内のジョンの領地を没収すると宣言した。アーサーもフィリップ2世の後ろ盾を得てジョンと争ったが、戦いの中で捕らえられ、1203年に姿を消した。ジョンが殺させたと広く信じられ、大陸の諸侯の心はジョンから離れた。フィリップ2世は攻勢に出て、1204年にはノルマンディーが、続いてアンジューなどロワール川流域の領地が奪われた。
国内では、カンタベリー大司教の任命をめぐって教皇インノケンティウス3世と争った。教皇が推したスティーヴン・ラングトンをジョンが拒むと、教皇はイングランド全土での聖務を停止し、1209年にはジョンを破門した。フランス王の侵攻の危険も迫り、1213年、ジョンは屈服して国土をいったん教皇に献じ、改めて封土として受け取る形をとった。
大陸の領地を取り戻すため、ジョンは重い軍役代納金や税を課して戦費を集めた。しかし1214年、同盟軍がフィリップ2世に大敗したブーヴィーヌの戦いで、奪回の望みは絶えた。不満を募らせた諸侯は反乱を起こしてロンドンを押さえ、1215年6月、ジョンはテムズ河畔のラニーミードで、国王の権力を制限する文書を認めさせられた。これがマグナ・カルタである。だがジョンは教皇に訴えてこれを無効とさせ、内戦が再開した。反乱した諸侯はフィリップ2世の王子ルイを王として迎え、ルイの軍はロンドンに入った。

内戦のさなか、ジョンはイングランド東部を移動中に、ウォッシュ湾の干潟で荷物の一部を失ったと伝えられる。まもなく赤痢にかかり、1216年10月18日か19日、ニューアークで死んだ。49歳だった。王位は9歳の息子ヘンリー3世が継ぎ、諸侯の多くは幼い王のもとに戻って、ルイはやがてフランスへ引き揚げた。
ジョンは同時代の修道士の年代記で、残酷で信用できない王として描かれ、その印象は長く続いた。ロビン・フッドの伝説でも悪役として登場する。ジョンという名のイングランド王は、その後一人も現れていない。近年の研究では、行政や財政に熱心な有能な面があったことも指摘されているが、失敗の大きさは否定しがたい。皮肉なことに、彼が押しつけられたマグナ・カルタは、後に再発行を重ね、王も法に従うという考え方の出発点として記憶されることになった。