石川啄木
概要
明治の歌人・詩人。三行書きの歌集『一握の砂』で暮らしの実感を詠んだ。借金を重ね、結核のため26歳で死んだ。
本文
石川啄木は、1886年2月20日、岩手県南岩手郡日戸村の常光寺で、住職の石川一禎と妻カツの長男として生まれた。本名は一(はじめ)。翌年、父が隣の渋民村の宝徳寺の住職になり、一家はそこへ移った。ただ一人の男の子として両親に溺愛されて育ち、それが自負心の強い性格を作ったと研究者は見ている。盛岡中学では先輩の金田一京助から雑誌『明星』を借りて読み、短歌を作り始めた。のちの妻・堀合節子と出会ったのもこのころである。1902年10月、中学を退学した。
退学してすぐに上京し、与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻を訪ねたが、職も学資も得られず、病に倒れて翌年父に連れ戻された。郷里で啄木の号を使い始め、『明星』に載せた長詩で注目される。1905年5月、19歳で第一詩集『あこがれ』を出した。同じ月に節子と結婚したが、盛岡での式に新郎の啄木は現れなかった。前年には父が宗派への納金を滞らせて住職を罷免されており、一家の暮らしは啄木の肩にかかっていた。
1906年、渋民の小学校の代用教員になったが、翌年、校長の排斥を子どもたちにけしかけて免職となり、北海道へ渡った。函館では代用教員と新聞記者を兼ねたが、8月の函館大火で勤め先が焼けた。札幌、小樽、釧路と新聞社を転々とし、小樽日報では野口雨情と机を並べた。釧路では事実上の編集長として紙面を任されたが、中央の文壇から遠い暮らしに焦り、3か月足らずで去った。1908年4月、函館の友人・宮崎郁雨が上京の資金を出し、残る家族の住まいまで用意した。
東京では金田一の世話で本郷の下宿に入り、森鷗外の観潮楼歌会にも招かれた。小説を書いて売り込んだが、どこにも載らなかった。金田一が自分の着物を質に入れて金を渡したこともある。1909年3月、同郷の編集長を頼って東京朝日新聞の校正係に採用された。この春、ローマ字で日記を書いている。浅草で娼婦を買う日々まで包み隠さず記した「ローマ字日記」は、近代日本の日記の中でも特に率直なものとされる。社では二葉亭四迷の全集の校正と編集をほぼ一人で担った。
1910年12月1日、第一歌集『一握の砂』を出した。一首を三行に分けて書き、働いても楽にならない暮らしや、故郷への思いを平明な言葉で詠んだ。「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る」はその一首である。刊行の直前に長男の真一が生まれてすぐに死に、歌集の巻頭には、この稿料は汝の薬代になった、という亡き子への献辞が置かれた。同じ年、朝日新聞に新しく設けられた歌壇の選者にもなった。
この年に起きた大逆事件は、啄木の考えを大きく変えた。評論「時代閉塞の現状」を書いたが、新聞には載らなかった。翌1911年1月、事件の弁護人だった友人の平出修を訪ねて裁判の様子を聞き、幸徳秋水の陳弁書を借りて書き写した。社会主義の文献を読み、青年を啓発する雑誌を土岐哀果と出そうと計画したが、病のために果たせなかった。
金には極めてだらしなかった。1909年ごろに書かれた自筆の借金の控えが函館の図書館に残っており、1905年から約4年間の借金は、ツケや支払いの遅れも含めて総額1372円50銭にのぼる。最も多く貸したのは宮崎郁雨の150円だった。この控えが公表されたことで、啄木には借金魔という評判がついて回るようになった。
1911年2月、慢性腹膜炎で入院し、退院後も熱が引かなかった。病は肺結核だった。翌1912年3月に母カツが死に、その衝撃で病状は悪化した。4月13日の朝、東京小石川の借家で死んだ。満26歳。妻と父、若山牧水が看取った。2か月後、第二歌集『悲しき玩具』が出た。節子も翌年、同じ病で世を去った。「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」の歌碑が上野駅にあるように、啄木の歌はいまも暮らしの言葉として口ずさまれている。