人物

今川氏真

Imagawa Ujizane
1538年 – AD1615年1月27日(享年77・推定)
今川氏重要度 2

概要

今川義元の嫡男。桶狭間の後に家を継いだが、武田・徳川に攻められ領国を失った。和歌と蹴鞠に通じ、家康の庇護で生きた。

本文

今川氏真は、駿河・遠江を治めた戦国大名今川氏の12代当主である。父の今川義元が桶狭間の戦いで討たれた後を継いだが、家臣の離反が続き、武田信玄と徳川家康に攻められて領国を失った。和歌や蹴鞠を好んだため、国を滅ぼした暗君として語られることが多いが、その後は家康の庇護を受けて77歳まで生き、子孫は江戸幕府の高家として続いた。

桶狭間の戦いに関わる図版:Bishū Okehazama-gassen
桶狭間の戦いWikimedia Commons Utagawa Toyonobu · Public domain

天文7年(1538年)、義元と、武田信虎の娘・定恵院の嫡男として生まれた。武田信玄は母の兄、つまり伯父にあたる。甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川が結んだ甲相駿三国同盟のもとで、天文23年(1554年)に北条氏康の娘・早川殿を妻に迎えた。永禄元年(1558年)頃には父から家督を譲られ、駿河・遠江の政務を担ったと考えられている。

永禄3年(1560年)5月、尾張に攻め込んだ義元が桶狭間で織田信長に討たれた。この戦いでは今川家の重臣や国衆も多く戦死し、領国は大きく揺らいだ。三河では岡崎城に入った松平元康、のちの徳川家康が今川家と手を切って信長と結んだ。氏真はこれを「松平蔵人逆心」と記して憤ったが、三河の国衆の離反は止まらず、遠江でも国衆の反乱が相次いだ。氏真は領内の寺社や商人に安堵状を出し、富士大宮に楽市を設けるなど立て直しを図ったが、流れは変えられなかった。

やがて武田信玄が三国同盟を破った。永禄11年(1568年)12月、信玄は駿河に、家康は遠江に攻め込み、氏真は駿府を捨てて遠江の掛川城に逃れた。掛川城は家康の軍に半年近く包囲されたが持ちこたえ、永禄12年(1569年)5月、北条氏の仲介で開城した。開城にあたっては、武田を駿河から追い払った後には氏真を駿河に戻すという約束が交わされたとされるが、守られることはなかった。これをもって戦国大名としての今川氏は滅んだとされる。

駿河侵攻の際、北条氏康は娘婿の氏真を救うために軍勢を出し、武田軍と駿河の薩埵峠で対峙した。妻の早川殿は駿府から逃れる際に輿にも乗れず徒歩で落ちのびたとされ、氏康はこれを恥辱として怒ったという。今川家の滅亡は、甲相駿の三国同盟が崩れ、武田と北条が敵味方に分かれる転機にもなった。

その後、氏真は妻の実家の北条氏を頼って小田原に移った。北条氏が武田氏と和睦すると、今度はかつて今川家から離反した家康のもとに身を寄せた。家康は氏真を一時は遠江の牧野城の城主にするなど、旧主の家の当主として遇した。天正3年(1575年)に上洛した氏真は、京都の相国寺で信長に請われて蹴鞠を披露したことが『信長公記』に記されている。父を討った相手の前で鞠を蹴ったこの逸話は、後世、氏真の不甲斐なさを示す話としてよく語られた。

晩年は京都で暮らし、公家や文化人と交わって和歌や連歌の会に加わった。氏真の詠んだ歌は多く残り、天正3年の旅の歌を集めた私家集もある。慶長17年(1612年)に駿府で家康と面会し、のち江戸に移って、慶長19年12月28日(1615年1月27日)に死去した。享年77。

江戸時代中期の松平定信は、油断の戒めとして足利義政の茶の湯、大内義隆の学問と並べて「今川氏真の歌道」を挙げた。和歌や蹴鞠にふけって国を失った人物という評価はこうして定着した。一方で近年は、桶狭間の後の困難な状況の中で領国の経営に努めたことや、武将としての力を失った後も家を残した処世を見直す研究も進んでいる。氏真の子孫は今川家・品川家として高家に列し、幕府の儀礼を担った。

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