飯塚盈延
概要
「スパイM」と呼ばれた特高警察の協力者。日本共産党の幹部として潜り込み、1932年の熱海事件で党の指導部を一網打尽にさせた。
本文
飯塚盈延は1902年、愛媛県周桑郡小松町(いまの西条市)に生まれた。小学校では成績がよく、天才と呼ばれたという。上京して労働運動に入り、米騒動などをきっかけに社会運動へ傾いた若者の一人として、渡辺政之輔らの東京合同組合に身を投じた。
1920年代、飯塚は日本共産党の派遣でモスクワの東方勤労者共産大学(クートヴェ)に留学した。ロシア革命から10年ほどのソ連で、各国の若い活動家を育てる学校である。1921年に設けられ、アジアの共産主義者の多くがここで学んだ。留学中はロシア風の「フョードロフ」という変名を使っていた。しかし留学中に共産主義へ幻滅し、帰国後に検挙されて転向し、警察の協力者になったとされる。いつ、どのような経緯で特高警察と結びついたのか、細部ははっきりしない。警察は戦後になっても協力者の存在を公式には認めておらず、彼の経歴の多くは、元党員の証言や後の調査報道によって組み立てられたものである。

当時の共産党は、治安維持法による取り締まりで1928年の三・一五事件、翌年の四・一六事件と大量検挙が続き、指導部が次々に入れ替わっていた。飯塚は「松村昇」などの変名を使って党に入り込み、同じクートヴェ帰りの風間丈吉委員長のもとで党の中枢に座った。大量検挙の後に立て直されたこの時期の党は、のちに「非常時共産党」と呼ばれる。家屋資金局の責任者として資金集めと活動の場所を握り、党員の住まいや会合の場所を手配する立場にいた。党の動きは、事実上すべて彼を通じて警察に筒抜けだったことになる。そのうえで、昭和恐慌と満洲事変の後の緊張のなかで、党に過激な方針をとらせたとされる。1932年10月6日に東京の銀行が党員に襲われた大森銀行ギャング事件も、党が資金難のなかで起こしたもので、その背後に彼の指示があったと言われる。
1932年10月30日、静岡県の熱海で党の全国代表者会議が開かれようとしていた。夜明け前、100人を超える警官が会場の別荘を囲んで踏み込み、発砲の応酬の末に集まった幹部11人を全員捕らえた。前後して委員長の風間らも捕らえられ、党の指導部はほぼ壊滅した。これが熱海事件である。報道は1933年1月まで禁じられた。会議を開かせた幹部の中で、ただ一人捕まらなかったのが松村こと飯塚だった。党は会議を企業の慰安会と偽って宿を取っていたが、人の集まりが悪く、宿が会社に問い合わせたことから露見しかけ、急いで解散しようとした矢先に踏み込まれたと、警察は発表している。
党員たちは、取り調べや裁判に松村の名がまったく出てこないことに疑いを持ち、彼が警察の手先だったと考えるようになった。「スパイM」の呼び名はこの松村の頭文字から来たとされる。当時の党員の多くは、彼の過激な方針を疑うことなく実行していた。それだけ、党の中で彼の地位と信用は揺るぎないものだった。1933年には獄中の幹部佐野学と鍋山貞親が転向を声明し、党は戦前の組織としての力をほとんど失った。
事件の後、飯塚は表から姿を消した。満洲で兄と建築業をしていたとされ、戦後は偽名で暮らし、1965年に世を去った。1976年の国会では、共産党の議員が、特高から大金を与えられて逃亡者として生き、晩年は酒におぼれて一室に閉じこもっていたと述べている。その正体と生涯は、松本清張の『昭和史発掘』の一章「スパイ“M”の謀略」や、立花隆の『日本共産党の研究』によって広く知られるようになった。2006年には、元記者らが彼の足取りを追った『昭和史最大のスパイ・M』も出ている。一人の協力者が組織の中枢に座り、方針を左右しながら壊滅へ導いたという点で、昭和の治安警察の手法を示す例としてしばしば挙げられる。