人物

畠山重忠

Hatakeyama Shigetada
1164年 – AD1205年7月10日(享年41・推定)
鎌倉幕府重要度 2

概要

武蔵の武士で鎌倉幕府の有力御家人。源平の戦いで先陣を務め「坂東武士の鑑」とされたが、北条時政に謀反を疑われ討たれた。

本文

畠山重忠は、平安時代の終わりから鎌倉時代のはじめに生きた武蔵国の武士で、鎌倉幕府の有力な御家人である。源平の戦いで先陣を務めた武勇と、潔い人柄から「坂東武士の鑑」とたたえられた。だが源頼朝の死後、北条時政に謀反の疑いをかけられ、わずかな兵で大軍と戦って死んだ。

1164年(長寛2年)、武蔵国男衾郡畠山郷(いまの埼玉県深谷市畠山)に生まれた。畠山氏は坂東平氏の流れをくむ秩父氏の一族である。父の重能は平治の乱のあと平家に仕えていた。1180年(治承4年)8月に頼朝が伊豆で挙兵したとき、父は京に上っていたため、17歳の重忠が一族を率いて平家方として出陣した。重忠は頼朝方の三浦氏と鎌倉の由比ヶ浜で戦い、続いて三浦氏の衣笠城を攻め、母方の祖父にあたる老齢の三浦義明を討ち取った。

ところが頼朝は房総で勢いを盛り返し、大軍で武蔵に入ってきた。10月、重忠は一族の河越重頼・江戸重長とともに頼朝に降った。頼朝は重忠に先陣を命じ、そのまま鎌倉に入った。のちに重忠は北条時政の娘を妻に迎えている。

源平の戦いで重忠は名を上げた。1184年の宇治川の戦いでは、源義経の軍に属して真っ先に川を渡ったとされる。『平家物語』は、馬を射られて徒歩で渡った重忠が、すがりついてきた烏帽子子の大串重親をつかんで対岸へ放り投げ、重親が「徒歩立ちの先陣」と名乗って敵味方に笑われたという話を伝える。一ノ谷の戦いでは、鵯越の坂を下るとき、愛馬を傷めまいと馬を背負って駆け下りたという話が『源平盛衰記』にある。いずれも軍記物語の話で、どこまで事実かは分からない。確かな記録とされる『吾妻鏡』では、重忠は源範頼の軍に属している。

一ノ谷の戦いに関わる図版:Battle of Ichi-no-Tani Folding Screen by Kano School
一ノ谷の戦いWikimedia Commons Kano School · Public domain

幕府ができてからも、重忠はしばしば疑いをかけられた。1187年、地頭を務める伊勢の所領で代官が乱暴を働き、重忠は罪人として預けられた。恥じて絶食した重忠を頼朝は許したが、武蔵へ戻ると、今度は梶原景時が謀反の疑いを言い立てた。呼び出された重忠は、起請文を出すよう求められても「心と言葉が違わないのだから起請文はいらない」と言い張ったと『吾妻鏡』は伝える。頼朝は何も言わずに褒美を与えて帰した。1189年の奥州合戦では先陣を務め、阿津賀志山の戦いで勝った。

1199年に頼朝が死ぬと、幕府では有力な御家人どうしの争いが続いた。重忠は梶原景時を追い落とす連判状に名を連ね、1203年に比企氏が滅ぼされたときには北条方についた。しかし時政が武蔵の国務を握るようになると、武蔵武士の筆頭である重忠とのあいだで対立が深まった。1204年には京で、時政の娘婿の平賀朝雅と重忠の子の重保が言い争う事件が起きた。

1205年(元久2年)6月、時政は重忠に謀反の企てありとして討伐を決めた。『吾妻鏡』によれば、時政の子の北条義時と時房は、重忠が謀反を起こすはずがないと反対したが、押し切られたという。6月22日、鎌倉にいた重保が殺された。鎌倉に急ぎ来るよう呼び出された重忠は、130騎ほどで武蔵の菅谷館を出て鎌倉へ向かう途中だった。武蔵国二俣川(いまの横浜市旭区)で、義時を大将とする大軍が向かってくると知った重忠は、引き返さずに踏みとどまって戦い、愛甲季隆の矢に当たって討ち死にした。42歳だった。

戦いのあと、義時は重忠の首を見て涙を流し、討伐は讒言によるものだったと父を責めたと『吾妻鏡』は書く。人望のあった重忠を殺した時政は御家人の反発を受け、翌月には失脚して伊豆へ退けられた。ただし『吾妻鏡』は北条氏の世にまとめられた書物で、父を追った義時をかばうための書き方だとする見方が強く、重忠をほめたたえる記事もその一部と考えられている。江戸時代には軍記物や浄瑠璃・歌舞伎を通じて誠実な武士の手本として親しまれ、生まれ故郷の深谷や菅谷館跡の残る嵐山町で、いまも郷土の英雄として語られている。

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