エレナ・チャウシェスク
概要
ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスクの妻で第一副首相。夫と並ぶ個人崇拝を受け、1989年の革命で夫とともに銃殺された。
本文
エレナ・チャウシェスクは、ワラキア地方ドゥンボヴィツァ県のペトレシュティ村の農家に、レヌーツァ・ペトレスクとして生まれた。生年は1919年とされるが、1916年とする資料もある。小学校の課程もまともに終えられず、兄とともにブカレストへ出て、薬の実験室の助手や織物工場の工員として働いた。
工場で働くうちに非合法のルーマニア共産党に加わり、1939年ごろ、当時21歳の活動家ニコラエ・チャウシェスクと出会った。ニコラエは一目で彼女に惹かれたと伝えられる。二人は1947年12月に結婚し、ヴァレンティン、ゾイア、ニクの三人の子をもうけた。共産党が政権を握ると、エレナは外務省で秘書の職を得たが、目立つ存在ではなかった。
転機は1965年、夫が党の第一書記(のち書記長)に就いたことである。1971年、夫妻は中国と北朝鮮を訪れた。毛沢東の妻の江青が文化大革命のなかで大きな力を振るう姿を、エレナは間近に見た。帰国後、夫が小さな文化革命とも呼ばれる引き締めを始めると、エレナも党の要職を次々に得ていく。1972年に党中央委員、1973年に政治局員、1977年には最高機関の常任幹部会員となり、1980年には第一副首相に就いた。夫に次ぐ第二の権力者だった。1975年からは国会にあたる大国民議会の議員も務め、党の人事の多くは彼女の手を通るようになった。

エレナは「科学者」としての名声にもこだわった。1950年代に夜間の課程で化学を学び、1967年にイソプレンの重合に関する論文で化学の博士号を得た。しかし、まともな学校教育を受けていない彼女に書ける論文ではなく、実際の執筆者は別の化学者たちだったとする証言が革命後に相次いだ。それでも国内では「世界的な科学者」としてたたえられ、外国の学会や大学からも名誉の称号を集めた。化学式のCO2を正しく読めなかったという話から、陰で「コドイ」とあだ名されたとも伝えられる。
1980年代、夫妻への個人崇拝は頂点に達した。誕生日には新聞が一面で祝辞を並べ、詩人たちが賛歌を書いた。エレナは「国民の母」と呼ばれ、国営テレビでは横顔を映さないよう厳しく指示されていたという。そのころルーマニアは、対外債務の返済を急ぐために食料や燃料を輸出に回し、国民は停電と配給の列に苦しんでいた。首都では旧市街を取り壊して巨大な「国民の館」を建てる工事が進められていた。党の人事を握ったエレナは、親族や取り巻きを要職に就け、体制の硬直を深めたとされる。
1989年、東欧の共産党政権が相次いで倒れ、11月にはベルリンの壁の崩壊が起きた。12月、西部の町ティミショアラで始まった抗議が全国に広がり、ルーマニア革命となる。12月22日、夫妻は党本部の屋上からヘリコプターで逃れたが、トゥルゴヴィシュテの近くで捕らえられた。12月25日、軍の基地で開かれた臨時の軍事法廷は、大量虐殺や国家経済の破壊などの罪で二人に死刑を言い渡し、その日のうちに銃殺した。処刑の場面は撮影され、映像の一部はのちにテレビで流された。裁判は短時間で、弁護も形だけのものだった。
法廷に引き出されたエレナは、手を縛ろうとする兵士に、母親のように育ててやったのに恥を知れと叫んだと記録されている。彼女は近代のルーマニアで処刑された唯一の女性とされる。遺体はブカレストのゲンチャ墓地に葬られた。三人の子のうち、次男のニクは党の幹部として後継者と目されていたが、革命後に裁かれ、1996年に病で死んだ。急ごしらえの裁判と即日の処刑は、革命の混乱のなかで新しい指導部が旧体制の象徴を急いで消したものだとして、のちに批判も受けている。