人物

仏生寺弥助

Busshōji Yasuke
1830年 – AD1863年8月8日(享年33・推定)
江戸幕府重要度 2

概要

神道無念流の練兵館で風呂焚きから頭角を現した幕末の剣客。当時の日本一と評されたが、京都で仲間に殺された。

本文

仏生寺弥助は、幕末の江戸で神道無念流の剣客として名を馳せた人物である。本名は吉村豊次郎。天保元年(1830年)ごろ、越中国射水郡仏生寺村の百姓の子として生まれたとされ、通り名はこの村の名から来ている。北辰一刀流の剣客として紹介されることもあるが、彼が学んだのは神道無念流である。

同じ仏生寺村の出身に、江戸で神道無念流の道場、練兵館を開いた斎藤弥九郎がいた。神道無念流は力強い打ち込みを重んじる流派として知られ、練兵館は、北辰一刀流の千葉周作の玄武館、鏡新明智流の桃井春蔵の士学館と並ぶ江戸の三大道場の一つで、力の斎藤と呼ばれた。斎藤自身も若いころに郷里を出て江戸で奉公しながら剣を学び、文政9年(1826年)に道場を開いた人物で、のちに江戸の剣術界で重きをなした。弥助は同郷のよしみで斎藤を頼って江戸に出て、練兵館で風呂焚きの下働きをすることになった。

ところが弥助は、仕事の合間に道場の稽古をのぞき見るうちに、習いもしない剣術を身につけてしまった。隠居先生と呼ばれた岡田利貞がその才に気づき、稽古をつけるようになると、初心者でありながら塾の手練れを次々に打ち負かしたという。16歳のころのことと伝えられる。

練兵館には長州藩士が多く学び、のちに木戸孝允、当時の桂小五郎もその塾頭を務めた。弥助の強さを示す記録として、長州藩の支藩岩国の剣客、宇野金太郎の一件がある。宇野が練兵館の重鎮で斎藤弥九郎の子の歓之助を打ち負かしたとき、道場の面目を守るために切り札として送り出されたのが弥助で、宇野を打ち据えたという。歓之助はのちに大村藩の剣術指南役を務めた剣客で、その歓之助を破った相手を倒したことで、弥助の名は塾の内外に知られた。得意は左上段からの面打ちで、打つ前に宣言しても誰も防げないほど速かったと伝えられる。前蹴りも得意とし、これも予告して必ず当てたという。

練兵館最後の塾頭となった原保太郎は、のちに、弥助こそ当時の日本一だったと語っている。それほどの腕を持ちながら、弥助は地位を得られなかった。文字が読めず、酒癖が悪く、素行にも問題が多かったためとされる。武士の身分を持たない百姓の出であることも、剣の腕だけでは越えられない壁になったと考えられる。

桜田門外の変で大老井伊直弼が殺されて以来、政局の中心は江戸から京都へ移り、尊王攘夷を唱える志士と、それを取り締まる側との争いが激しくなっていた。文久3年(1863年)の初め、将軍の上洛に先立って、江戸で集められた浪士たちが京都へ送られた。その多くはまもなく江戸へ戻ったが、京都に残った者たちが壬生に屯所を置き、京都の治安を担うようになった。弥助も京都に上って長州藩が組織した勇士組に属したが、この壬生浪士組、のちの新選組の芹沢鴨と親しく、そちらに移ろうとしたとされる。近藤勇らとともに浪士組を率いていた芹沢は、のちに同じ組の者に殺される人物である。文久3年6月24日(1863年8月8日)、弥助は京都で練兵館の仲間に酒に酔わされたうえで殺されたと伝えられる。その強さを恐れられたためともいわれ、表向きの理由は大丸呉服店から300両を押し借りしたことだったという。墓は京都の心光寺にある。翌年には池田屋事件が起き、京都の争いはさらに血なまぐさくなっていく。

弥助について残された記録はごく少ない。同じ世代の剣客千葉栄次郎のような試合の記録もなく、写真も見つかっていない。生年も含め、伝えられる経歴の多くは後年の聞き書きに頼っている。その姿は、斎藤弥九郎が桂小五郎に宛てた書状や、高杉晋作の回想などで断片的に伝わるだけである。そのぶん伝説がふくらみやすく、津本陽の小説『修羅の剣』(1986年)などが、天才でありながら世に容れられなかった剣客として彼を描いている。

動画(1)

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