オキシコンチン
概要
パーデュー・ファーマが、ゆっくり溶ける被膜をかけたオキシコドンを売り出した。十二時間効くから乱用されにくい、依存は一パーセント未満だと営業は説明した。その数字の出所は、別の文脈で書かれた五行の投書だった。医師に講演料を払い、痛みを第五のバイタルサインと呼ぶ運動を後押しした。錠剤は砕けば一度に効く。二十年で数十万人が過剰摂取で死に、うち多くは処方から始まった。痛みを我慢させないという正しい主張が、売るための言葉として使われた。
場所
41.05°N -73.54°E · アメリカ・コネチカット州
本文
1980年1月10日、アメリカの医学誌『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』の読者の投書の欄に、ごく短い手紙が載った。書いたのはボストンの医師ハーシェル・ジックと、研究者ジェーン・ポーターである。病院に入院中に麻薬性の鎮痛薬を投与された患者1万1882人の記録を調べたところ、依存症になったと記録されていたのは4人だけだった。依存は稀である、と手紙は結んでいた。文はわずか五つほどだった。
この手紙が何を調べたものだったかは、はっきりしている。患者は入院中で、医療者の目の届くところにいた。使った期間は短く、手術の後のような急な痛みに対してだった。そして退院した後にどうなったかは、追っていなかった。つまり、病院で数日使う分には依存は稀だ、という観察であり、それ以上のことは何も言っていない。

ところがこの短い手紙は、その後数百回も引用され、その多くが言葉を言い換えていた。長く続く慢性の痛みに麻薬性の薬を使っても、依存になるのは1パーセントにも満たない、と。元の手紙には、そんなことは書かれていない。2017年、同じ医学誌は引用のされ方を調べた研究を載せた。600を超える引用の大半が、この手紙を依存が稀だという証拠として扱い、元の調査が入院中の短期の使用だったことに触れたものはごく一部だった。医学誌はこの手紙に、オピオイドの依存性は低いという主張を支えるために、大きく、不適切に引用されてきた、という注記を付けた。手紙が出てから40年近くがたっていた。
1996年、コネティカット州スタンフォードに本社を置く製薬会社パーデュー・ファーマが、新しい鎮痛薬オキシコンチンを売り出した。サックラー家が持つ、株を公開していない会社である。中身はオキシコドンという、モルヒネの単離以来のモルヒネに近い強い麻薬性の鎮痛薬で、新しかったのは錠剤を包む被膜だった。被膜がゆっくり溶けるので、一錠で12時間効き続ける、というのが売りだった。

会社の営業担当者たちは、医師にこう説明した。薬がゆっくり効くので、快感が急に押し寄せる波が来ず、乱用されにくい。依存になる人は1パーセントに満たない。その根拠として持ち出されたのが、あの短い投書だった。さらに、この薬はそれまで主に末期の癌の痛みに使われていたが、腰痛や関節の痛みのような長引く痛みにも使ってよい。効かなければ量を増やせばよい、と。アメリカの食品医薬品局は、薬の添付文書に、吸収が遅れることで乱用の危険が減ると考えられる、という一文を入れることを認めた。この一文を裏づける臨床試験はなかった。審査にかかわった担当官は、のちにパーデューに職を得ている。
売り方は周到だった。会社は営業担当者の数を大きく増やし、薬局の処方の記録を買って、鎮痛薬を多く処方する医師を探し出した。医師たちを保養地に招いて痛みの治療の講習会を開き、講演料を払った。会社の考えを話した医師たちは、その後、処方を増やした。患者が薬を強く求めるのは依存ではなく、量が足りないからだ、という「偽の依存」という説明も広められた。だから量を増やせ、というのである。

時代の空気も、それを後押しした。1990年代の半ばから、体温、脈拍、呼吸、血圧に続く「五番目の生命の兆候」として痛みを測ろうという運動が広がった。患者に痛みを0から10の数字で答えてもらい、顔の表情の絵で示す表が病院に置かれた。1990年代の終わりから2000年代の初めにかけて、痛みの扱いは病院の評価の項目にも組み込まれていった。この運動の主旨は正しかった。痛みが長いあいだ軽く扱われてきたのは事実であり、それは全人的な痛みの医師たちが訴えてきたことでもあった。しかし病院が患者の痛みへの満足で評価されるようになると、医師は鎮痛薬を求められて断りにくくなった。そして製薬会社は、こうした運動にも資金を出していた。
被膜には弱点があった。噛んだり砕いたりすれば壊れ、すり潰して鼻から吸ったり、溶かして注射したりすれば、12時間分の薬が一度に体に入る。このことはすぐに知られ、1990年代の終わりには、炭鉱の衰えたアパラチア山脈の町々で乱用が広がり、「田舎のヘロイン」と呼ばれた。12時間効くという売り文句にも問題があった。多くの患者で効き目が12時間もたず、切れると離脱の苦しい症状が出た。それでも会社は一日2回という売りを変えず、代わりに量を増やすよう指導したと報じられている。2007年、パーデューの関連会社と3人の幹部は、薬の危険を偽って宣伝した罪を認め、6億ドルあまりを支払った。しかし販売は続いた。

被害は三つの波になって押し寄せた。最初の波は、1990年代の終わりからの、処方される鎮痛薬による過剰摂取だった。2010年、オキシコンチンは砕きにくい製剤に改められ、処方の取り締まりも厳しくなった。すると、すでに依存していた人々の多くが、より安く手に入る闇のヘロインへ移った。これが二つ目の波である。規制は、依存そのものを消したわけではなかった。2013年ごろからは三つ目の波が来た。工場で合成されるフェンタニルである。ケシを育てる必要がなく、モルヒネの数十倍から百倍も強く、極めて安い。ヘロインや偽の錠剤に混ぜられて出回り、買う側は混ぜられていることを知らないまま命を落とした。
アメリカで薬物の過剰摂取で死んだ人は、1999年には年に1万7000人ほどだったが、2020年代の初めには年に10万人を超えた。そのうち麻薬性の薬による死者は、1999年からの累計で80万人前後にのぼると推計されている。第二次世界大戦で戦死したアメリカ人の数を、はるかに上回る。死者の多くは働き盛りの人々で、親を失った子どもや、依存に苦しむ家族が各地に残された。

責任を問う動きは、長い時間をかけて進んだ。各地の州や自治体がパーデューを訴え、2019年、会社は破産を申し立てた。2021年には、サックラー家が個人の財産から数十億ドルを払う代わりに、民事の責任を将来にわたって免れるという和解案がまとまった。しかし2024年6月、合衆国最高裁判所は5対4で、この免責を認めなかった。自ら破産していない者を、会社の破産手続きの中で免責することはできない、という判断だった。2025年、サックラー家と会社は、総額70億ドルを超える新しい和解案に合意した。サックラー家は美術館や大学への寄付で知られていたが、その名はルーヴル美術館、メトロポリタン美術館、大英博物館などの壁から次々に外された。
振り返ると、出発点にあった主張は正しかった。痛みは長いあいだ軽く扱われ、麻薬性の薬への恐れが、本当に必要な人に薬を届かなくしていた。セント・クリストファー・ホスピスの医師たちは、末期の癌の患者を丁寧に見守り、痛みに見合った量を与えれば依存は起こりにくいことを示した。その正しさが、そのまま売るための言葉として使われた。言葉を偽ったのではない。末期の癌で成り立つことを、慢性の腰痛にまで当てはめ、その当てはめ方に証拠を求めなかったのである。
痛みと薬の歴史は、一方向には進まない。笑気ガスの見世物の時代には、痛みを消す手段があるのに、長いあいだ使われなかった。女王の無痛分娩の時代には、出産の痛みを消してよいのかが争われた。そして20世紀の終わりのアメリカでは、痛みを消そうとしすぎたことで、多くの人が死んだ。かつて清がアヘンに苦しんだように(アヘン戦争)、ケシから生まれた薬は、癒やしと破滅の両方を運び続けている。