インダス文明の衰退
概要
都市が捨てられ、下水も規格も失われた。侵入の跡は無く、川筋の変化と気候が有力とされる。
場所
30.63°N 72.86°E · パキスタン・パンジャブ州
本文
インダス川の流域には、紀元前2600年ごろから、ハラッパーやモヘンジョ・ダロのような計画された都市が並んでいた(インダス文明)。焼き煉瓦の寸法はどこでもほぼ同じ比率にそろえられ、重さの単位も統一され、家々の排水は道の下の下水につながっていた(モヘンジョダロの都市計画)。印章には、いまも解読されていない文字が刻まれ、その品はペルシア湾を越えてメソポタミアまで運ばれた。
紀元前1900年ごろから、この仕組みが崩れ始める。モヘンジョ・ダロでは、後の時期になるほど家が小さく雑に建てられ、通りに窯が入り込み、下水は手入れされなくなった。やがて大都市は捨てられ、印章も、文字も、そろった重さの単位も使われなくなった。メソポタミアの記録に現れる「メルッハ」という遠い国との交易も、このころ途絶えたとみられる。

衰退は、どこでも同時に起きたわけではない。シンド地方の大都市が早く衰えた一方、グジャラートのロータルや、北東のハリヤーナーの遺跡では、後の時期まで独自の土器や暮らしが続いた。考古学者はこの時期を「後期ハラッパー文化」と呼び、紀元前1300年ごろまでとすることが多い。文明が一夜で消えたのではなく、数百年かけて、地域ごとに別々の姿へ変わっていったのである。
かつてこの衰退は、北西から侵入してきたアーリヤ人が都市を滅ぼしたと説明されていた。20世紀半ば、発掘を指揮したイギリスの考古学者モーティマー・ウィーラーは、モヘンジョ・ダロで見つかった人骨を虐殺の跡と見て、ヴェーダの神インドラが都市を破壊したのだと論じた。しかし、その後の調査で、人骨は時期の違う層から出たもので、一度の虐殺の証拠にはならないことが分かった。焼け落ちた町も、大量の武器も見つかっていない。インド・アーリヤ系の言葉を話す人々がインドに入ってきたのは、都市の衰退より後のことと考えられている(ヴェーダの成立)。

いま有力なのは、水の環境の変化を重く見る説である。インダス文明の遺跡は、インダス川の本流だけでなく、その東を流れていたガッガル・ハークラー川の流域に多く集まっている。この川は、ヴェーダに歌われるサラスヴァティー川にあたるとする説がある。この川の流れはしだいに細り、ほとんど涸れた。紀元前2200年ごろからは、世界の各地で乾燥化が確かめられ、インドではモンスーンの雨が弱まったとみられている。川の氾濫に頼っていた農耕は、その影響を受けたはずである。
ただ、何が決め手になったのかについては、まだ意見が分かれている。川の流れが変わった時期を、都市の衰退よりずっと古いとみる研究もある。メソポタミアとの交易が細ったことが、都市の繁栄を支える力を奪ったという説もある。原因は一つではなく、地域によって違っていたと考える研究者が多い。

人がいなくなったわけではない。衰退の後の時期には、シンド地方の大都市の周辺で集落が減る一方、東のハリヤーナーやガンジス川の上流、南のグジャラートで、小さな村がかえって増えた。人々は、雨の多い東や、別の作物が育つ土地へ移り、規模の小さい農村の暮らしに戻っていったと考えられている。夏の雨で育つ雑穀や稲の栽培が広がったことも指摘されている。
近年は遺伝子の研究も加わった。2019年に発表された、ハリヤーナー州のラーキーガリーの遺跡で見つかった人骨の分析では、インダス文明の人々に、のちに草原地帯から入ってきた人々の祖先の要素が見られず、この人々の子孫が現在の南アジアの人々の祖先の大きな部分を占めていることが示された。都市の住人は滅ぼされたのではなく、その後の南アジアの人々の中に溶け込んでいったと考えられる。

失われたのは、人よりも、都市を成り立たせていた仕組みのほうだった。煉瓦の規格も、文字も、遠い国との交易も、それを必要とする都市の組織がなくなると使われなくなった。インドで再び大きな都市が現れるのは、紀元前6世紀ごろ、ガンジス川の流域でのことである。インダスの都市の名は記憶にも残らず、19世紀から20世紀にかけての発掘で、ようやく地中から姿を現した。