ホモ・サピエンスの出現
概要
2017年、モロッコの骨が30万年前と分かり、種の年齢は10万年伸びた。どこか一か所で生まれたのではなく、アフリカのあちこちで並行して形になった、という見方に変わりつつある。
場所
31.86°N -8.87°E · モロッコ・マラケシュ=サフィ地方
本文
私たちの種、ホモ・サピエンスはいつ、どこで生まれたのか。2017年までの教科書の答えは、およそ20万年前の東アフリカ、というものだった。その答えを動かしたのは、新しく掘り出された骨ではなく、半世紀前に見つかっていた骨の測り直しだった。
1961年、モロッコの古都マラケシュの西、大西洋に近いジェベル・イルードの丘で、鉱物を掘っていた作業員が人の頭骨を掘り当てた。その後も頭骨や顎の骨が出たが、当時の年代の見積もりは4万年前ほどで、アフリカにいたネアンデルタール人の仲間ではないかと考えられていた。北アフリカの片隅の、それほど古くない骨という扱いだった。

2004年から、ドイツのマックス・プランク研究所のジャン=ジャック・ユブランらがこの場所を掘り直した。新たに少なくとも5人分の骨と石器が見つかり、骨と同じ層から出た、火で焼けた火打ち石を測った。焼けた石は、焼けた時点から年代を数え直すことができる。結果は約31万5千年前、幅をとって28万年から35万年前だった。2017年に論文が出て、ホモ・サピエンスの年齢は一気に10万年以上伸びた。
それまで最古とされていたのは、エチオピア南部のオモ川流域、キビシュで1967年に見つかった頭骨だった。2005年の年代測定で約19万5千年前とされ、長くこれが「最古の現生人類」の座にあった。もっとも、オモ・キビシュの年代も2022年に測り直され、骨の上を覆う火山灰の分析から、23万年前より古いという結果が出ている。最古の値は、測り方が進むたびに動いている。

ジェベル・イルードの人々の顔は、いまの人とほとんど変わらない。顔は平たく小さく、頬骨の張りかたも私たちに近い。違うのは頭の後ろで、前後に長く伸びている。脳の大きさはいまの人の範囲に入るが、脳を包む頭蓋が丸く膨らんだ形になるのは、ずっと後のことになる。この丸い頭の形が今と同じになるのは、およそ10万年前から3万5千年前のあいだと見る研究がある。顔が先に今の形になり、頭の形はゆっくり後から追いついた。
この発見で、揺りかごが一つではなくなった。東アフリカのどこかで一つの集団が生まれ、そこから広がった、という筋書きは描きにくくなる。北の端のモロッコに30万年前の、すでに顔の今に近い人々がいて、南アフリカのフロリスバッドでは約26万年前の頭骨が見つかっている。アフリカ大陸のあちこちに散らばった集団が、気候の変化に合わせてつながったり離れたりしながら、何十万年もかけて全体として一つの種になっていった。いまはそういう見方が有力になりつつある。

遺伝子の研究も、同じ方向を指している。1987年、いま生きている人々のミトコンドリアDNAをたどると、20万年前ほどのアフリカの一人の女性にさかのぼるという研究が出て、「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれた。ただしそれは、その女性しかいなかったということではなく、母から娘への系統がたまたま一本だけ残ったということにすぎない。さらに近年の研究では、南部アフリカの狩猟採集民の系統が、ほかのすべての人類の系統から非常に早く分かれたことが分かっている。アフリカの中の人々の遺伝的な違いは、アフリカの外の人々全体の違いより大きい。
この種がアフリカの外へ大きく広がったのは、ずっと後の6万年前から7万年前ごろとされる。それより前にも外へ出た集団があったことは、イスラエルの洞窟で見つかった約18万年前の顎の骨などから分かっているが、その人々の血はいまの人にはほとんど残っていないようだ。外へ出た人々は、ユーラシアでネアンデルタール人やデニソワ人と出会い、交わった。ネアンデルタール人はその後4万年前ごろまでに姿を消すが(ネアンデルタール人の消滅)、血は残った。アフリカの外の人々のゲノムには、ネアンデルタール人に由来する部分が2%前後含まれている。
形が今に近づくことと、今の人のように考え、ふるまうことは、同じではない。南アフリカのブロンボス洞窟では、7万年あまり前の、幾何学模様を刻んだ赤い顔料の塊や、穴をあけた貝の飾りが見つかっている。言葉や象徴を使う力がいつ生まれたのかは、骨からは分からない。認知革命と呼ばれる変化が急に起きたのか、アフリカで長い時間をかけて少しずつ積み上がったのかも、議論が続いている。洞窟の壁に動物を描いたショーヴェ洞窟の壁画やラスコーの壁画は、そのずっと後のことである。

どこからが「ホモ・サピエンス」かは、線の引き方の問題でもある。ジェベル・イルードの人々を、今の人の祖先そのものと見るか、今の人へつながる前段階と見るかは、研究者によって表現が違う。種は一晩では生まれない。顔、歯、頭の形、行動、遺伝子が、それぞれ別の速さで、別の場所で、少しずつ今の形に近づいていった。その長い過程のどこかに私たちは線を引き、それを種の誕生と呼んでいる。30万年という数字も、新しい骨や測り方が出るたびに、また動くかもしれない。