大原安綱
概要
平安時代の伯耆国の刀工。在銘の作が残る最古級の刀工で、国宝「童子切安綱」の作者として知られる。
本文
安綱は、平安時代に伯耆国(いまの鳥取県西部)で太刀を打った刀工である。大原安綱、あるいは伯耆安綱と呼ばれる。自分の名を刻んだ作が今も残る刀工としては最も古い一人で、反りを持つ日本刀が形づくられた最初期の作者とされる。代表作の「童子切安綱」は国宝で、天下五剣の一つに数えられている。
生没年は分からない。古い刀剣書は安綱を大同年間(806〜810年)の人と伝え、江戸時代初めの書物には749年生まれ、811年没とまで書かれているが、裏付けはなく後世の創作とみなされている。この時期の刀はまだ反りのない直刀が中心で、いまの日本刀の姿が整うのは平安時代の後半とみられる。そのため安綱の実際の活動は、10世紀から11世紀ごろに求めるのが妥当とされている。室町時代の目利きが伝えた名工の番付では、一条天皇の時代の名工11人の筆頭に安綱が置かれ、三条宗近や包平よりも先に名が挙がっている。
伯耆国は中国山地の砂鉄に恵まれ、古くから製鉄の盛んな土地だった。安綱に始まる一門は古伯耆と呼ばれ、子とされる真守をはじめ、貞綱、有綱、安家など、銘のある太刀を残した刀工が何人も続いた。日本刀の歴史の中で、系譜をたどれる門派としては最も古い部類に入る。「大原」の名は子の真守の銘から来た呼び名と考えられており、安綱自身が伯耆の大原に住んでいたかどうかは確定していない。それでも伯耆の各地には、安綱の屋敷跡や鍛冶場の跡と伝える土地がいくつも残る。
安綱の太刀は細身で切先が小さく、手元に近い腰のあたりで強く反る。地鉄は大きな板目が流れて黒みを帯び、刃文は沸の強い小乱れで、刃の中に金筋や砂流しが走る。のちの京や備前の刀に比べると素朴で古風な印象を与え、初期の日本刀がまだ硬軟の鉄を混ぜて鍛えていた名残とみられる。茎に刻む銘は「安」より「綱」を大きく切るのが癖である。これほど古い刀工でありながら在銘の作が多く、しかも茎を切り詰めていないものが多いのは、早くから宝刀として大切に扱われてきたためと考えられている。
童子切の名は、源頼光が丹波の大江山に住む鬼、酒呑童子の首をこの太刀で斬り落とした、という伝説から来ている。酒呑童子の物語は14世紀には形をとっていたとみられ、15世紀前半の目録に確実な記録が現れる。この太刀と物語が結びつくのは室町時代の刀剣書からで、それ以前は「鬼切」と呼ばれていた。伝説そのものは史実ではなく、平安時代の武士である頼光の武勇を語る物語として育ったものである。
伝来もはっきりしない部分が多い。室町時代には足利将軍家が持っていたとされ、のちに豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠を経て越前の松平忠直に贈られたと伝えられるが、同時代の史料による裏付けはない。確かなのは、江戸時代に越前松平家の流れをくむ津山藩の松平家に伝わったことである。徳川吉宗の命で本阿弥家がまとめた『享保名物帳』にも「名物 童子切」として載っている。江戸時代の前半には、試し斬りの名人が罪人の遺体6体を重ねて斬り下ろしたところ、刃が下の土壇にまで達したという話も伝わる。
近代に入っても童子切は津山松平家の家宝として守られ、1933年に旧国宝、1951年に文化財保護法のもとで国宝に指定された。戦後、松平家が手放したのち民間の手を経て国が買い上げ、東京国立博物館の所蔵となった。同館では刀剣の第一の名品として扱われ、同館の大包平と並んで「日本刀の東西の両横綱」と称されることがある。
童子切のほかにも、安綱の銘を持つ太刀は重要文化財などに指定されて各地に残る。ただし安綱の名声にあやかって後から銘を刻んだとみられるものもあり、北野天満宮に伝わる「鬼切丸」は、近年の研究では鎌倉時代の作で、銘も別人による後世の追刻と考えられている。鬼退治の伝説とともに広まった名だが、確かに言えるのは、反りを持つ日本刀が生まれたばかりの時代に、すでに完成度の高い太刀を打つ刀工が伯耆にいたということである。