人物

柳川熊吉

Yanagawa Kumakichi
1825年 – 1913年(享年88・推定)
江戸幕府重要度 2

概要

箱館の侠客。箱館戦争の後、埋葬を禁じられた旧幕府軍の遺体を集めて葬り、函館山の麓に碧血碑を建てた。

本文

柳川熊吉は、幕末から明治の箱館(函館)で生きた侠客である。文政8年(1825年)、江戸浅草で果物商と料理屋を営む野村鉄次郎の長男として生まれた。本名は野村熊吉という。12歳ごろには一人前の料理人になったが、やがて浅草の侠客で町火消の頭でもあった新門辰五郎の子分となった。辰五郎はのちに一橋慶喜、すなわち最後の将軍となる徳川慶喜の身辺の警護を任され、京都にも従った人物である。熊吉はこの親分のもとで、火消しと侠客の世界の作法を身につけた。

安政3年(1856年)、熊吉は箱館へ渡った。黒船来航の翌年に結ばれた条約で箱館は開港が決まり、幕府は奉行所を置いて港町の整備を進めていた。人と物が集まる新しい町で、熊吉は親分として名を上げ、のちには火消しの組を組織して頭になった。柳川の姓は、当時の箱館奉行堀利煕から与えられたものと伝えられる。

黒船来航に関わる図版:UB Maastricht - Heine 1856 - Perry Commissionarissen
黒船来航Wikimedia Commons Wilhelm Heine · Public domain

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争で幕府は敗れ、江戸城は新政府軍に明け渡された(江戸無血開城)。旧幕府の海軍を握っていた榎本武揚は新政府への軍艦の引き渡しを拒み、艦隊を率いて江戸を脱した。各地で敗れた旧幕府の将兵を乗せた艦隊は、この年の秋に蝦夷地に上陸して箱館の五稜郭を占領し、ここを拠点とした。陸軍を率いた大鳥圭介や、新選組の副長だった土方歳三もこれに加わっていた。翌明治2年(1869年)、新政府軍が上陸して箱館の町は戦場となり、土方も市街の近くで銃弾に倒れた。熊吉は火元の警備にあたり、両軍のあいだを行き来して意思の疎通に努めたとされる。榎本は熊吉の義侠心を愛したという。5月に旧幕府軍が降伏して箱館戦争の終結が終わると、町には旧幕府軍の兵の遺体が残された。新政府軍の戦死者は手厚く葬られたが、賊軍とされた旧幕府軍の遺体は、新政府軍によって埋葬を強く禁じられていたと伝えられる。

熊吉はこれを見過ごさなかった。日蓮宗の寺である実行寺の住職松尾日隆、大工の棟梁大岡助右衛門らとともに、市中に放置された遺体を集め、実行寺などに葬った。この行いによって熊吉は新政府軍に捕らえられ、処罰を覚悟したというが、戦いが終わったのちに釈放された。

明治4年(1871年)、熊吉は遺体を函館山の麓に改めて葬り、明治8年(1875年)にはその地に慰霊の碑を建てた。碑の名は碧血碑という。忠義の士の流した血は三年たつと碧玉に変わるという、中国の古典『荘子』に見える故事にちなむ名で、旧幕府軍の戦死者を忠義の士として弔う思いが込められている。題字は大鳥圭介が書いたと伝えられる。降伏した榎本や大鳥は東京で獄につながれ、明治5年(1872年)に赦されたのちは新政府に仕えていた。旧幕府の側で戦った者たちを弔う役は、町に生きる熊吉のような人々が担ったのである。新政府の世になってなお、賊軍とされた者を公然と悼む碑を建てることは、勇気の要る行いだった。

その後、熊吉は碑に近い谷地頭で料理屋の柳川亭を開き、榎本とも交わりを続けた。料理人として出発した彼が、晩年にふたたび包丁を握ったことになる。老いてからは家を養子に譲り、碧血碑の守りと慰霊に余生を捧げた。刺青を入れず、酒もたばこもやらない侠客だったと伝えられ、函館の老舗のそば屋の創業を金銭面で支えたという話も残る。

大正2年(1913年)、実行寺の住職によって、熊吉をたたえる碑が碧血碑のそばに建てられた。熊吉はその年の12月に、88歳前後で世を去った。碧血碑では今も毎年慰霊の祭りが行われ、その傍らに熊吉の碑が並んで立っている。勝った側と負けた側に分かれた戦いのあと、死者を敵味方で分けずに弔った一人の侠客の行いは、函館の町の記憶として語り継がれている。

動画(1)

死体埋葬大作戦!?人情・漢気が止まらない柳川熊吉を楽しく解説!非株式会社いつかやる戦死者の埋葬に義を貫いた柳川熊吉の生涯を解説する
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