鳥居耀蔵
概要
天保の改革で目付・南町奉行として江戸の取り締まりにあたった幕臣。密偵とおとり捜査を使い「妖怪」と恐れられた。
本文
鳥居耀蔵は、幕府の儒者として大学頭を務めた林述斎の子として、寛政8年(1796年)に生まれた。耀蔵は通称で、諱は忠耀という。文政3年(1820年)、旗本鳥居家の婿養子となって家督を継ぎ、2500石の旗本になった。学問の家に育ったため漢学の素養は深く、のちに幽閉されてからも詩作を続けている。
耀蔵の名が表に出るのは、老中水野忠邦が進めた天保の改革の時期である。目付として水野に重用され、渋川敬直・後藤三右衛門とともに「水野の三羽烏」と呼ばれた。天保9年(1838年)、江戸湾の測量をめぐって代官の江川英龍と対立し、翌年の蛮社の獄では渡辺崋山や高野長英ら蘭学者を罪に陥れる側に立った。ただし耀蔵は蘭学のすべてを退けたわけではなく、天文・暦・医術の洋書の利用は認める意見も残している。崋山の内偵は江戸湾の巡視より前から密偵を使って進めていたことが分かっており、蛮社の獄を個人的な遺恨だけで説明する見方には異論もある。
天保12年(1841年)、耀蔵は江戸の町人に人気のあった南町奉行矢部定謙を讒言で失脚させ、自ら後任の南町奉行となった。江戸の町では「町々で惜しがる奉行やめ(矢部)にして、どこがとりえ(鳥居)でどこが良う(耀)蔵」という落首が詠まれたという。矢部は改易され、預け先の桑名で絶食して死んだ。改革の奢侈禁止令を徹底するため、耀蔵は配下の密偵を町に放ち、おとり捜査も常の手段とした。人々は甲斐守という官名と耀蔵の名をもじって「妖怪」と呼び、「蝮の耀蔵」とも恐れた。北町奉行の遠山景元が取り締まりの緩和を図ると、耀蔵は水野と組んで遠山を閑職の大目付に移している。のちの講談や時代劇で遠山の金さんが善玉、鳥居が悪玉として描かれる構図は、この対立から生まれたとされる。
アヘン戦争で清が敗れると、高島秋帆や江川英龍は洋式砲術の採用を幕府に説いた。耀蔵はこれに反対の立場をとり、天保13年(1842年)、長崎で高島が密貿易などの嫌疑で捕らえられた件にも深く関わったとされる。もっとも、高島の処罰は長崎会所の会計の乱れを正すための水野の判断だったとする説もある。

耀蔵の転落は、上司を裏切ったことから始まった。天保14年(1843年)、水野が江戸・大坂周辺の土地を幕府の直轄にする上知令を出して大名・旗本の猛反発を受けると、耀蔵は反対派の老中土井利位に機密の資料を流した。水野は失脚し、改革は終わった。ところが翌弘化元年(1844年)に水野が老中に返り咲くと、耀蔵は職を解かれ、弘化2年(1845年)に全財産を没収のうえ、讃岐丸亀藩の京極家に預けられた。このとき「金毘羅へいやな鳥居を奉納し」という川柳が詠まれている。水野の側近だった後藤三右衛門は斬首、渋川敬直も他藩に預けられ、「三羽烏」はそろって表舞台から消えた。
丸亀での幽閉は20年以上に及んだ。昼夜監視がつき、一年中だれとも話をしなかったと日記に書いた年もある。その一方で、若いころから心得のあった漢方を生かして薬草を育て、土地の人々を診て慕われた。丸亀藩士が学問を習いに訪れたことも伝えられている。明治元年(1868年)に新政府の恩赦で幽閉を解かれたが、将軍から赦免の文書が来なければ動けないと言ってしばらく腰を上げなかった。
東京に戻った耀蔵は、変わり果てた町を見て、自分の言うとおりにしなかったから幕府は滅びたのだと嘆いたという。明治6年(1873年)10月3日、子や孫に看取られて死んだ。満で70代の後半だった。勝海舟は耀蔵を残忍酷薄と評しながらも、長い幽閉にも悔いる色を見せなかった豪胆さを認めている。改革の時代の苛烈な取り締まり役と、幽閉先で慕われた老学者という二つの顔を持つ人物である。