人物

東郷重位

Togo Shigekata
1561年 – 1643年(享年82・推定)
薩摩藩重要度 2

概要

島津家に仕えた武士で、示現流剣術の開祖。初太刀にすべてを懸ける剣は薩摩藩の御流儀として幕末まで受け継がれた。

所属

薩摩藩

本文

東郷重位は1561年、薩摩の瀬戸口重為の三男として生まれた。瀬戸口氏は北薩摩の豪族東郷氏の遠縁で、重位は兄とともに東郷氏の当主の許しを得て東郷の姓に戻った。同時代の史料には、瀬戸口藤兵衛や瀬戸口肥前守の名で記されることもある。通称は藤兵衛、のちに肥前守などを名乗った。名の重位は、示現流の伝えでは「ちゅうい」と読む。若いころは、肥後の丸目長恵が開いたタイ捨流の剣を学んだ。

重位は島津氏に仕えた。1578年11月、島津氏が豊後の大友氏を破った高城の合戦が初陣で、首を挙げたという。島津氏はその後九州の大半を手にしたが、1587年、豊臣秀吉の大軍に降った。重位は当主島津義久に従って京へ上った。その地で天寧寺の僧善吉に出会い、天真正自顕流という剣を授かったと伝えられる。この出会いは示現流の始まりの物語として語られるが、細部は流派の伝えによるところが大きい。

1589年に薩摩へ帰った重位は、国分の地で修行を重ね、学んだ自顕流にタイ捨流の技を合わせて独自の剣を作り上げた。1599年ごろには、島津家中にすでに多くの門人を抱えていたという。

転機は1604年に来た。その名声を聞いた島津忠恒(のちの島津家久)の前で、重位はタイ捨流の師範と立ち合って勝ち、島津家の兵法師範に取り立てられた。このとき逆上した忠恒が斬りかかったが、丸腰の重位は腰の扇子で忠恒の手を打って刀をかわした、という逸話が伝わる。流派の名は、学僧の南浦文之によって示現流と名付けられた。観音経にある示現神通力という言葉から採ったとされる。こうして重位の剣は島津家の剣となり、家中の多くの武士がこれを学ぶことになった。

示現流の剣は、相手より先に、渾身の一撃を振り下ろすことを何よりも重んじる。示現流とその系統の稽古としてよく知られるのは、地面に立てた木を、高く構えた木刀で左右から休みなく打ち続ける立木打ちである。初太刀に全てを懸け、二の太刀を考えない剣だとよく言われる。華やかな型よりも、一撃の速さと重さを体に覚え込ませることに重きを置いた剣だった。

重位は剣だけの人ではなかった。礼儀正しく、物事を荒立てない人柄で、藩の家老から島津家内部の密事について相談を受けることも多かったという。のちに、海外との交易の拠点だった坊津を含む坊泊郷の地頭を務めた。忠恒は初め1000石を与えようとしたが、重位はそのうち600石を返し、400石を受けたと伝わる。隠居した後も100石を与えられている。1643年に死去した。数え年で83歳だった。墓は鹿児島市の草牟田墓地にある。

示現流は重位の子孫の東郷家が代々受け継いだ。2代目は子の重方、3代目は孫の重利で、このころまで藩内に多くの門弟を抱えていた。流派は薩摩藩の御流儀として藩外への伝授を禁じられた。島津家の分家の佐土原藩を除き、他藩の者には決して教えない御留流だった。江戸時代中ごろには宗家の相続が乱れて流派が揺らぎ、門人の家から薬丸自顕流が分かれて独立した。それでも6代目の東郷実乙が流祖以来の達人といわれるほどの腕で流派を立て直し、示現流は中興を果たした。幕末に剣で名を知られた薩摩藩士には、示現流とその系統の使い手が多い。新選組の近藤勇が、薩摩の者と立ち合うときは初太刀を外せ、と隊士に教えたという話はよく知られるが、確かな出典のある言葉ではない。

鳥羽・伏見の戦いから西南戦争まで、薩摩の剣は幕末から明治初めの戦いに名を残した。明治になって警視庁が定めた剣術の型にも示現流の技が採られ、いまも伝えられている。示現流そのものも、東郷家の手で鹿児島に受け継がれ、宗家は13代を数える。重位が一代で作り上げた剣は、400年にわたって途切れることなく伝えられてきたのである。

動画(1)

薩摩最強の剣術【示現流】はなぜ強い?幕末で無双した秘密がここにあり!「解説」剣術武術シリーズ非株式会社いつかやる幕末で無双した薩摩の剣術『示現流』の開祖を解説する回
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1561年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →