田中新兵衛
概要
幕末の薩摩の尊王攘夷派。京都で暗殺を重ね「人斬り新兵衛」と呼ばれた。姉小路公知暗殺の疑いで捕らえられ自害した。
所属
薩摩藩本文
田中新兵衛は、幕末の京都で暗殺を重ねた薩摩の尊王攘夷派である。のちに河上彦斎・岡田以蔵・中村半次郎(桐野利秋)とともに「幕末の四大人斬り」と呼ばれるようになった。諱は雄平という。
新兵衛は1832年ごろの生まれとされる。もとは武士ではなく、鹿児島の伝承では船頭の子とも薬種商の子とも言われる。記録の上では薩摩藩の一門・島津織部家の家臣、つまり藩士の家来という低い身分だった。鹿児島城下の豪商で尊王攘夷の志士でもあった森山新蔵が、士分の株を買い与えたのだと伝えられる。剣の流派ははっきりしないが、城下で育ったことから示現流の流れをくむものと考えられている。
1862年(文久2年)、薩摩藩の島津久光が兵を率いて上洛し、京都は尊王攘夷を唱える志士たちであふれた。新兵衛もこの年に京都へ上った。久光自身は朝廷と幕府の協調を目指し、京都に入ってまもなく、伏見の寺田屋に集まった藩内の過激派を討たせてもいる。その一方で、久光が勅使を伴って江戸へ下り、幕府に文久の改革を迫ったことで、京都の朝廷の発言力は一気に強まった。藩の方針から外れた下級の藩士や浪士たちは、幕府寄りと見なした人々を「天誅」の名のもとに斬り始める。そこで狙ったのが、安政の大獄で井伊直弼の側近・長野主膳に協力した九条家の家臣、島田左近だった。新兵衛はひと月にわたって左近を付け回し、7月、木屋町で襲った。逃げる左近を鴨川の河原まで追って斬り、首を先斗町にさらした。これが、京都で「天誅」と称する暗殺が続く始まりの一つになった。
その後、新兵衛は土佐勤王党の武市半平太と引き合わされ、義兄弟の契りを結んだという。以後、武市の配下の岡田以蔵らと組み、本間精一郎ら、志士たちが敵と見なした者を次々に襲ったとされる。どの事件に誰が加わったかは史料によって異なり、新兵衛の関わりがはっきりしないものも多い。同じ年の秋には、志士の取り締まりに当たった京都町奉行所の与力らが、江戸へ向かう途中の近江の石部宿で襲われて殺されており、新兵衛もこれに加わったとされる。
1863年7月5日(文久3年5月20日)の夜、公家の姉小路公知が、御所の朔平門の外で数人に襲われて殺された(朔平門外の変)。公知は三条実美と並ぶ攘夷派の急先鋒だったが、この年に勝海舟の案内で大坂湾の防備を見て回り、考えを改めつつあったとも言われる。現場には新兵衛の刀と、薩摩の下駄が残されていた。新兵衛は捕らえられ、京都町奉行の取り調べを受けた。
新兵衛は問いに一言も答えなかった。そして隙をついて脇差を抜き、腹を切り、喉を突いて死んだ。1863年7月11日(文久3年5月26日)のことで、31歳ほどだった。刀は数日前に盗まれていたという話もあり、襲撃の手際の悪さや、公知と武市が親しかったことなどから、真犯人は別にいたのではないかという疑いはいまも残る。ただ、生き残った公知の従者が遺体を見て新兵衛に間違いないと証言したことなどから、近年は新兵衛を実行犯とみる説が有力である。
この事件は、政局を大きく動かした。犯人が薩摩藩の者とされたことで、薩摩藩は御所の乾門の警備を解かれ、藩士の御所への出入りを禁じられた。京都で長州藩と三条実美ら急進派の公家に押されていた薩摩は、会津藩と手を結び、翌々月の八月十八日の政変で長州と急進派の公家を京都から追い出す。新兵衛の一件は、その流れの中に置かれている。
新兵衛を知る人は、気性が激しく、話が熱を帯びると涙を流して語ったと伝えている。土佐の平井収二郎は、性格は淡白で感じやすい人だったと書き残した。墓は京都の東福寺即宗院にある。1969年の映画『人斬り』では三島由紀夫が新兵衛を演じ、近年はゲームにも描かれるなど、謎の多い死とともにいまも語られている。