人物

清水政勝

Shimizu Masakatsu
1540年頃 – 17世紀前半(享年85・推定)
後北条氏重要度 2

概要

後北条氏の家臣。三方ヶ原の戦いで敵の首を素手でねじ折ったと伝えられ、ねじ首太郎左衛門と呼ばれた怪力の武将。

所属

後北条氏

本文

清水政勝は、戦国時代に小田原の後北条氏に仕えた武将である。通称ははじめ新七郎、のちに太郎左衛門といった。伊豆国の住人で北条家の重臣だった清水康英の次男として生まれた。生まれた年ははっきりしないが、慶長5年(1600年)に60歳ほどだったと伝えられることから、1540年前後の生まれと考えられる。

兄の新七郎は、永禄12年(1569年)、駿河の蒲原城で武田信玄の軍と戦って討ち死にした。政勝は兄に代わって嫡男となり、兄と同じ新七郎の名を継いだ。これより前の永禄11年(1568年)には、武田に攻められた今川氏を助けるため、父や兄とともに駿河へ出陣している。

北条と武田は、このころ激しく争っていたが、北条氏康が死んだ元亀2年(1571年)の暮れ、北条氏政は武田と再び手を結んだ。翌元亀3年(1572年)、武田信玄が徳川家康の領地へ攻め込むと、北条はその援軍を送った。政勝もその一人として武田軍に加わり、三方ヶ原の戦いに参戦した。

三方ヶ原の戦いに関わる図版:Battle of Mikatagahara
三方ヶ原の戦いWikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

政勝の名を後世に残したのは、この戦いでの逸話である。江戸時代の初めに三浦浄心が書いた『北条五代記』は、政勝が徳川方の武将の首を素手でねじ折り、そこから「ねじ首太郎左衛門」と呼ばれるようになったと伝えている。

その後の政勝は、北条の各地の戦場を渡り歩いた。兄と同じく駿河の長久保城の守りにつき、のちには上野国へ転戦して、天正12年(1584年)に館林城の長尾顕長を、天正14年(1586年)に下野の壬生城の壬生義雄を攻めた。天正15年(1587年)には新田金山城に入って513貫を領し、同じ年のうちに駿河に戻って葛山と長久保を任された。領地は7474貫に増えている。北条家の中で、政勝が重んじられていたことがうかがえる。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉が大軍で北条を攻めた。政勝は小田原城に籠もって戦い、徳川家の家臣阿部正吉の配下と激しく戦って、主君の北条氏政にほめられたという。しかし小田原城は開城し、北条家は滅んだ。

主家を失った政勝は浪人となった。10年後の慶長5年(1600年)、家康の次男である結城秀康に招かれ、下総国で300石を与えられて家臣となった。このとき60歳ほどだったという。秀康が関ヶ原の戦いのあと越前へ移ると、政勝もこれに従い、慶長6年(1601年)、武勇に優れた武士たちとともに越前の大野城に入った。知行は1025石に増え、さらに配下の分として1800石を預けられたという。慶長9年(1604年)、子の直英に家督を譲って隠居し、隠居の料として100石を与えられた。死んだ年はわかっていない。

政勝の怪力については、『小田原北条記』などの軍記物に、いくつもの話が残っている。一日に大豆を一斗も平らげ、厩から引き出すのにも中間が六、七人がかりという荒馬にまたがったところ、股で締めつける力があまりに強く、馬は血を吐いて死んでしまったという。主君の北条氏直の前では、鹿の角を片手で引き裂いてみせたとも伝えられる。重い鎧を着て旗指物を背負ったまま、別の名馬に乗って長久保から鷲頭山までの五里あまりを往復した、という話もある。

母もまた怪力で知られ、崖から落ちかけた牛を一人で抱え上げて助けたと伝えられる。若い頃の政勝は力を頼んで傲慢にふるまい、遊び暮らしていたが、この母に昔の話を引いていさめられて深く反省し、それからは兵法の書を読みふけって、知恵も兼ね備えた武将になったという。

これらの話は、どれも後世の軍記物が伝えるもので、そのまま事実とは言えない。それでも、北条家に仕えて各地の城を任され、主家の滅亡後も徳川の一門に迎えられた経歴は、政勝が実際に武勇で聞こえた武将だったことを物語っている。

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