柴五郎
概要
会津藩士の子に生まれた陸軍大将。義和団の乱の北京籠城で公使館区域の防衛を指揮し、欧米で名を知られた。
本文
柴五郎は、会津藩士の家に生まれ、戊辰戦争で家族を失った後、陸軍大将にまで上った軍人である。1900年の義和団の乱では、北京の公使館区域の籠城戦で日本の将兵と義勇兵を率いて防衛にあたり、欧米で名を知られた最初の日本人の一人となった。
1860年(万延元年)、会津藩の上士・柴佐多蔵の五男として生まれた。1868年の会津戦争で、新政府軍が若松の城下に迫ると、祖母、母、兄嫁、姉妹は自害した。幼い五郎はその前に親類のもとに預けられていて生き残った。戦後、会津藩は下北半島の斗南に移され、五郎も父や兄とともに移り住んだ。寒さと飢えの中で、犬の肉まで食べて冬を越したことを、五郎は晩年の手記に書き残している。斗南は表向き3万石とされたが、火山灰の痩せた土地で実際の収穫ははるかに少なく、移った藩士の家族は飢えと寒さに苦しんだ。会津の武士が飢え死にしたと薩長の者に笑われるのは末代までの恥だ、ここは戦場と思え、と父に叱られながら犬の肉を飲み込んだ話は、手記の中でもよく知られた場面である。

青森県庁の給仕などを経て、1873年に陸軍幼年学校に入り、陸軍士官学校を出て砲兵の将校となった。同期には上原勇作や秋山好古がいる。清国やイギリスに駐在して情報の仕事に携わり、英語、フランス語、中国語に通じた。1898年の米西戦争では、キューバでアメリカ軍の作戦を観戦した。
1900年3月、清国公使館付の武官として北京に赴任した直後、義和団の乱が起きた。「扶清滅洋」を掲げる義和団が北京に押し寄せ、清朝政府も列国に宣戦した。各国の公使館が集まる区域は包囲され、日本公使館の書記生やドイツ公使が殺された。6月20日から8月14日まで、およそ2か月に及ぶ籠城戦となった。
籠城した各国の兵は合わせても数百人にすぎなかった。柴は日本の将兵と義勇兵を指揮し、最も危険とされた粛親王府の守りを受け持った。ここには多くの中国人キリスト教徒が逃げ込んでいた。柴は限られた兵で防御を続け、各国の部隊と連携して持ちこたえた。8月、日本を含む8か国の連合軍が北京に入り、籠城は解かれた。籠城の総指揮をとったイギリス公使クロード・マクドナルドは、柴と日本兵の働きを高く評価した。イギリスの『タイムズ』の記者モリソンの報道もあって、柴の名は欧米に広く知られ、各国から勲章を贈られた。のちにこの籠城はハリウッド映画『北京の55日』(1963年)にも描かれ、柴の役は伊丹十三(当時は一三)が演じている。籠城での日本兵の規律と働きぶりは、イギリスが日本を見直すきっかけの一つになったともいわれ、2年後の日英同盟と結びつけて語られることがある。
その後、柴は日露戦争に砲兵連隊長として出征し、第12師団長、東京衛戍総督、台湾軍司令官などを歴任して、1919年に陸軍大将となった。朝敵とされた会津の出身でありながら大将に上ったことは、当時としては異例だった。柴は陸軍の中でも指折りの中国通として知られ、事あるごとに中国へ派遣された。日露戦争の後も中国との関係に心を砕き、中国を侮る風潮を戒めていたと伝えられる。少年時代に家族を失った恨みは深く、西郷隆盛や大久保利通の非業の死にも同情がわかなかったと、後年に回想している。

1945年、日本の敗戦を知った柴は、9月に自決を図った。高齢のため果たせなかったが、その傷がもとで12月13日に死去した。85歳だった。
柴が少年時代を回想した遺書は、石光真人によって編まれ、1971年に『ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書』として出版された。会津の落城と斗南での苦しみを淡々と記したこの本は、敗者の側から見た明治維新の記録として今も読み継がれている。籠城の体験は、柴の口述をまとめた『北京籠城』にも残されている。