雷電爲右エ門
概要
江戸時代の大相撲の大関。江戸の本場所で254勝10敗、勝率9割6分2厘という史上例のない成績を残した。
本文
雷電爲右エ門は、1767年1月、信濃国小県郡大石村(いまの長野県東御市)で関家の長男として生まれた。本名は太郎吉。幼いころから体が大きく、14、5歳で6尺(約181センチ)に達していたという。13歳で小諸の城下の精米所に奉公に出ると、その働きぶりと怪力が評判になり、長瀬村の庄屋・上原源吾右衛門が相撲の修行をさせたいと申し出た。上原家は代々の相撲好きで、自前の土俵を持ち、少年たちを預かって稽古をつけていた。太郎吉はここで相撲のほか、読み書きやそろばん、四書五経まで学んだ。
1783年に天明の飢饉が起きると、各地で巡業が中止になり、江戸の浦風林右衛門の一行は、凶作の被害を受けなかった上原家に身を寄せて翌年の春まで逗留した。太郎吉はこのとき関取たちに稽古をつけてもらい、浦風に力士になるよう勧められた。1784年秋に江戸へ出ると、浦風はすぐには土俵に上げず、当時の第一人者だった谷風梶之助のもとで内弟子として鍛えさせた。

1788年、松江藩の抱え力士となって藩士の身分を得、郷里の両親には40両が贈られた。藩主の松平治郷から、出雲にゆかりの雷電の四股名を許された。江戸の本場所に初めて出たのは1790年11月場所で、いきなり関脇に付け出され、8勝2預の優勝に相当する成績を挙げた。翌1791年6月には、寛政の改革のさなかの江戸城で将軍徳川家斉が観る上覧相撲に出たが、このときは陣幕島之助に押し出されて敗れている。
1795年、師と仰いだ谷風が流行病で死に、同じ年に雷電は大関に昇った。ライバルの小野川喜三郎が引退したあとは、雷電の一強の時代が続いた。1811年に引退するまで、江戸の本場所に35場所在籍し、大関は27場所を務めた。通算成績は254勝10敗2分14預5無勝負。勝率は9割6分2厘で、優勝に相当する成績は28回、一つの場所で2敗したことは一度もなかった。連勝は最長で44を数え、30以上の連勝を4度記録している。これほど強かったにもかかわらず、横綱の免許は受けていない。
強さはやがて伝説になった。あまりの強さに、張り手、鉄砲(突っ張り)、閂、鯖折りを禁じ手にされた、閂で相手の腕を折った、という話が講談や相撲の本で広く語られてきた。しかし、これらを裏づける同時代の記録はなく、真偽はきわめて疑わしい。張り手の一撃で相手を死なせたという類の話も、後世の誇張である。長崎で清の学者と酒の飲み比べをして2斗を飲み干し、鼻歌まじりで宿へ帰ったという逸話も伝わっている。
雷電は力士としては珍しい教養人で、巡業の記録を「諸国相撲控帳」(雷電日記)などに書き残した。相撲だけでなく旅先の風俗や災害も記しており、1804年の象潟地震で景勝地の象潟が隆起して失われたときには、現地で被害を詳しく書き留めている。1805年の本場所の最中に起きた力士と町火消のけんか、め組の喧嘩についても、日記に詳しい描写が残る。江戸の暮らしを知る史料としても貴重である。
引退後は松江藩の相撲頭取となり、藩のために有望な力士を探した。幕下にいた稲妻雷五郎を見いだし、稲妻はのちに大関となって横綱の免許を受けている。1825年4月9日(文政8年2月21日)、江戸で死去、59歳。墓は赤坂の報土寺にあり、郷里や松江などにも雷電の墓と称するものがある。
郷里の東御市には、1861年に佐久間象山が文を撰んで書いた顕彰碑が建てられた。碑の石を削って持てば勝負に勝てると信じられ、明治にはすっかり削られて文字が読めなくなったため、勝海舟と山岡鉄舟の呼びかけで新しい碑が建てられた。生家は復元されて公開されており、最強の力士として今も語り継がれている。