プラーサートトーン
概要
アユタヤ朝の大臣から王位を奪い、プラーサートトーン朝を開いた王。山田長政を都から遠ざけた。
所属
アユタヤ朝本文
プラーサートトーンは、タイのアユタヤ朝で4番目の王家となるプラーサートトーン朝を開いた王である。1351年のアユタヤ朝の成立から続く王国で、在位は1629年から1656年まで(一説に1655年まで)。もとはオークヤー・カラーホームと呼ばれた軍務の大臣で、王族の争いを巧みに操って王座に上った。日本では、アユタヤで活躍した山田長政の敵役として知られる。
生まれは1599年ごろ、ナレースワン王の治世とされる。出自には説が分かれる。タイの伝統的な史書はエーカートッサロット王の庶子とするが、オランダ東インド会社の商館員エレミアス・ファン・フリートの記録では、ソンタム王の母方の従兄弟だという。若いころは手のつけられない乱暴者で、夜盗の群れを率いたとも、王の農耕儀礼に象に乗って剣を抜いて斬り込んだともファン・フリートは書いている。投獄と赦免を何度も繰り返しながら、戦場での働きと実務の才で王の信頼を得て、王の側近の高い位にまで上った。
1628年にソンタム王が死ぬと、後継ぎをめぐって争いが起きた。王の弟シーシンが継ぐはずだったが、彼を含む宮廷の一派は王の息子チェーターティラートを推して即位させた。シーシンは捕らえられたのち反乱を起こしたが、日本人傭兵の頭である山田長政に鎮められ、処刑された。この間に軍務大臣カラーホームの位に就いた彼の力は、ほかに並ぶ者がないほど大きくなった。
山田長政は駿河の出身とされ、1612年ごろシャムに渡った。当時のアユタヤには朱印船貿易で渡った商人や、関ヶ原の戦いのあとに職を失った浪人らが住む日本人町があり、その人数は千人を超えたともいわれる。日本人は傭兵としても重んじられ、長政はその頭としてオークヤー・セーナーピムックの位を与えられていた。カラーホームと長政は、王位をめぐる争いのあいだ手を組んでいたのである。
1629年、父が死ぬと、彼は王族並みの壮大な葬儀を営んだ。貴族の多くが王の謁見より葬儀に集まったことに若い王は激怒したが、彼は先手を打って私兵を率いて王宮に入り、王を捕らえて処刑した。代わりにまだ幼い王の弟アーティッタヤウォンを立て、自分は摂政として実権を握った。ファン・フリートによれば、このとき彼は貴族たちの前で若い王の残酷さと酒癖を言い立て、自分の行いに同情を集めたという。
王位に就く前に彼が除いたのは、王族だけではなかった。王位を争った高官を謀反の罪で処刑し、簒奪に反対した山田長政を南方のリゴール(ナコーンシータンマラート)の太守として送り出した。長政が都を離れて間もなく、幼い王は廃されて殺され、彼自身が王位に就いた。長政はリゴールで毒殺されたと伝えられ、1630年にはアユタヤの日本人町も焼き討ちされて、日本人はいったん都から追われた。
王としての彼は、権力を王のもとに集め、刑法や民法を整えた有能な統治者でもあった。アユタヤは国際交易の港として栄え、オランダ東インド会社の設立で生まれたオランダ東インド会社をはじめ、ヨーロッパの商人が多く集まった。カンボジアを再び従わせた一方で、北方のチェンマイはビルマのタウングー朝に奪われた。アユタヤに残る寺院ワット・チャイワッタナーラームや、バーンパインの離宮は彼が建てたものである。
日本では長く、長政を倒した腹黒い悪役として語られてきた。長政が戦前の南方進出の宣伝の中で英雄に仕立てられたことで、その印象はなおさら強まった。タイの研究では、彼の策謀を権力を保つための冷徹な政治としてマキャヴェリになぞらえて論じることが多い。彼の死後、王位はまた血なまぐさい争いを経て、息子のナーラーイ王に渡った。アユタヤはこの王家と次の王家のもとで続き、1767年のアユタヤの陥落で終わりを迎える。