ペロピダス
概要
古代ギリシア・テーバイの将軍。エパメイノンダスの盟友で、神聖隊を率いてスパルタを破り、テーバイの覇権を築いた。
所属
テーバイ本文
ペロピダスは紀元前4世紀のテーバイの政治家・将軍である。盟友エパメイノンダスとともにスパルタの覇権を崩し、テーバイがギリシアの先頭に立つ短い時代を開いた。エパメイノンダスの名声の陰に隠れがちだが、二人は20年あまり、互いの命を救い合いながら並んで戦った。伝記はプルタルコスの『対比列伝』にあり、ローマの将軍マルケルスと対にされている。
裕福な名家に生まれたが、財産を友人や貧しい市民のために使い、自分は運動選手のような質素な暮らしを好んだと伝えられる。家族のために財を残せと友人に言われたとき、目の見えない足の悪い貧者を指して、そう、ニコデモスには金が必要だ、と答えたという。物静かで学問を好んだ貧しい家のエパメイノンダスとは、生まれも気性も対照的だった。
二人の友情が固まったのは、紀元前385年ごろのマンティネイアの戦いだったとされる。テーバイはスパルタの同盟軍として出陣し、ペロピダスは体の前面に七つの傷を負って倒れた。エパメイノンダスは彼が死んだと思いながらも、その体と武具を守って一人で多数を相手に戦い、自身も胸と腕に傷を負った。スパルタ王アゲシポリスが駆けつけて、二人とも救われたという。
紀元前382年、スパルタ軍がテーバイの城塞カドメイアを奪い、親スパルタの寡頭派が町を握った。ペロピダスはアテナイに逃れ、亡命者たちと解放の計画を練った。紀元前379年の冬、彼らはひそかにテーバイに戻り、寡頭派の指導者たちを討ち取った。市民が立ち上がり、城塞のスパルタ守備隊は降伏した。以後ペロピダスは、ボイオティアの将軍(ボイオタルケス)に毎年のように選ばれた。
彼が率いたのが、300人の精鋭からなる神聖隊である。隊を作ったのは同じテーバイの将軍ゴルギダスとされる。恋人同士の組で編まれたと伝えられ、互いの前で恥をさらすまいと勇敢に戦ったという。紀元前375年ごろのテギュラの戦いで、神聖隊ははるかに多いスパルタ軍を破った。紀元前371年のレウクトラの戦いでは、エパメイノンダスが左翼を厚くする斜線陣を初めて用い、ペロピダスは神聖隊を素早くスパルタ軍にぶつけて勝利を決めた。スパルタの不敗の神話はこの日に崩れた。

その後、二人はペロポネソス半島に攻め入り、スパルタに長く隷属させられていたメッセニアを独立した国として再建させた。ペロピダスは北方にも力を伸ばし、テッサリアでは僭主フェライのアレクサンドロスと争い、マケドニアでは王位争いを裁いて人質を連れ帰った。その中に王の弟、のちのフィリッポス2世がいた。若いフィリッポスはテーバイで数年を過ごし、ギリシアの軍事と政治を学んだ。のちにその技でギリシアを従えることになる人物である。紀元前367年には、ペルシア王アルタクセルクセス2世のもとへ使節として赴き、テーバイに有利な取り決めを引き出した。
テッサリアでは一度、アレクサンドロスに捕らえられたこともあった。救い出すには二度の遠征が要り、成功した二度目を率いたのはエパメイノンダスだった。紀元前364年、テッサリアの町々から再び助けを求められたペロピダスは、日食に兵が動揺したために少しの兵しか連れて行けなかったが、キュノスケファライの丘ではるかに多い敵を破った。しかし敵将アレクサンドロスを見つけると、自らの手で討とうと突進し、護衛兵に討たれた。プルタルコスは、怒りに任せて命を捨てた指揮官の例として彼を挙げている。2年後、エパメイノンダスもマンティネイアで戦死し、テーバイの覇権は二人とともに終わった。神聖隊が、かつての人質フィリッポスの軍に全滅させられるのは、それから26年後のことである(カイロネイアの戦い)。