村上義光
概要
護良親王に仕えた武将。1333年の吉野城落城で討ち死にした。『太平記』は親王の身代わりとなった壮絶な自害を描く。
本文
村上義光は、鎌倉時代の末に後醍醐天皇の皇子・護良親王(大塔宮)に仕え、吉野城の落城とともに討ち死にした武将である。史料に残る実像はわずか数行にすぎないが、軍記物語『太平記』が描いた壮絶な最期によって、護良親王の忠臣として広く知られるようになった。
信濃の村上氏は、河内源氏の流れをくむ家である。系図集『尊卑分脈』によれば、父は村上信泰、通称は彦四郎、位は従五位下で、子に朝日と義隆がいた。『尊卑分脈』や『梅松論』では諱を「義日」と書き、『太平記』が「義光」と記したことから、こちらの表記が広まった。どちらも「よしてる」と読む。村上氏は本来、鎌倉幕府に仕える信濃の御家人で、北条氏とも近い家だった。その一族がいつ、どういう経緯で幕府に背いた護良親王の側近になったのかは分かっていない。
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が倒幕を企てて兵を挙げた(元弘の乱)。天皇は笠置山で捕らえられて隠岐に流されたが、護良親王は逃れて各地で反幕府の兵を募り、楠木正成とともに抵抗を続けた。『太平記』では、笠置陥落の後に熊野へ落ちのびる親王に付き従った9人の供の一人として義光が登場する。十津川で土豪に通行の代わりとして錦の御旗を渡したと知ると、義光は激怒してこれを取り返したという話も描かれている。
元弘2年(1332年)の末から、反幕府の動きは再び勢いを増した。護良親王は吉野で、楠木正成は河内の赤坂城や千早城で兵を挙げ、各地の武士に倒幕を呼びかける親王の令旨が出回った。幕府は大軍を畿内に送り、吉野と千早の両方を攻めることになった。吉野は金峯山寺の蔵王堂を中心とする山上の寺の町で、僧兵の力もあって、親王が拠るには都合のよい場所だった。
元弘3年(1333年)の初め、護良親王は大和の吉野にたてこもった。幕府は大軍を送り、閏2月1日(ユリウス暦3月17日)、二階堂道蘊の軍勢の攻撃で吉野城は落ちた。『尊卑分脈』は、このとき義日と次男の義隆が討ち死にしたと記す。歴史の史料で確かめられるのは、ほぼこれだけである。
『太平記』は、この落城の場面を劇的に描く。陥落を覚悟した親王が最後の酒宴を開いていると、義光が駆けつけて落ちのびるよう説き、親王の鎧を脱がせて自分が身につけた。義光は蔵王堂の二天門の櫓に上がり、自分こそ護良親王だと名乗って、寄せ手に向かい「自害の手本にせよ」と叫んで腹を切った。はらわたをつかみ出して櫓の板に投げつけ、太刀を口にくわえてうつぶせに倒れたという。寄せ手が親王を討ったと思い込んでいる間に、親王は高野山の方へ逃れることができた。父の後を追おうとした子の義隆は、生きのびて親王の供をするよう父に命じられたが、追っ手を食い止めて傷を負い、自ら命を絶ったと描かれる。
これらの場面は物語として描かれたもので、どこまでが事実かは確かめられない。ただし、吉野城の戦いで村上父子が護良親王の側で死んだことは、『尊卑分脈』と『梅松論』から裏づけられる。
吉野は落ちたが、千早城の楠木正成は幕府の大軍を引きつけて持ちこたえ、その間に後醍醐天皇は隠岐を脱出した。落城から間もなく、足利尊氏が京都の六波羅探題を攻め落とし、新田義貞が鎌倉を攻めて、同じ年の5月に鎌倉幕府は滅んだ。義光が命を懸けて守った護良親王は、建武の新政のもとで征夷大将軍に任じられたが、やがて足利尊氏と対立して捕らえられ、建武2年(1335年)に鎌倉で殺された。
明治時代、南朝の忠臣を顕彰する動きの中で義光は改めて注目され、明治41年(1908年)に従三位を贈られた。護良親王を祀る鎌倉宮には村上社が設けられ、義光が祭神となっている。吉野山には義光の墓と伝えられる場所が残る。