南方熊楠
概要
和歌山出身の博物学者・民俗学者。粘菌の研究や神社合祀反対運動で知られ、生涯を在野の学者として過ごした。
本文
南方熊楠は1867年、和歌山城下の金物商の次男に生まれた。体が弱く、健康と長寿を願って、熊野の神と楠の大木にちなむ名を授かった。家には商品を包むための古紙が山と積まれ、少年はそこに書かれた絵や文字を貪るように読んだ。借りてきた百科事典『和漢三才図会』105巻を、記憶しながら書き写したという。書き写して学ぶやり方は、生涯変わらなかった。
1883年に上京し、翌年、大学予備門に入った。同窓には夏目漱石や正岡子規、秋山真之らがいた。しかし授業はそっちのけで遺跡を掘り、菌類を集めて回り、試験に落ちて中退する。1886年、自由に学べる場を求めてアメリカに渡った。大学には入らず、本を買い、標本を集め、図書館と野山で独学した。フロリダやキューバにも採集に出かけている。
1892年にイギリスへ渡り、翌1893年、科学誌『ネイチャー』に「東洋の星座」が載った。漢籍や和書の知識を使って西洋の学者の問いに答える論考を次々と寄せ、生涯で『ネイチャー』に51本が掲載された。これは単独の著者としての最多記録とされる。大英博物館の閲覧室に通い、9か国語の本を書き写した膨大なノートを作った。ロンドンでは亡命中の孫文と知り合い、深く交わった。1897年のことで、孫文は熊楠の日記に「海外逢知音(海外で知己に逢う)」と書き付けた。孫文はのちに和歌山まで熊楠を訪ねている。一方で、人種差別を受けて暴力沙汰を起こし、閲覧室での口論の末に1898年に大英博物館を追われてもいる。
1900年に帰国し、那智の山中で採集に没頭したのち、和歌山県の田辺に住み着いた。研究の中心は粘菌(変形菌)で、新種を見つけ、自宅の柿の木から新しい属の粘菌も発見した。1906年には田辺の闘鶏神社の宮司の娘・松枝と結婚し、翌年に長男の熊弥、1911年に長女の文枝が生まれている。同じ1906年、神社を一つの村に一つにまとめる神社合祀の政策が進むと、熊楠は激しく反対した。小さな社とその森がなくなれば、そこに住む生き物も地域の信仰も失われるというのが理由で、1911年の手紙ではこれを「エコロジー」という言葉で説明している。日本でこの語を使った早い例とされる。柳田國男は熊楠の意見書を『南方二書』として印刷し、政府の関係者に配って運動を助けた。熊楠が守ろうとした田辺湾の神島は、1912年に保安林に指定されている。反対運動の中で講習会の会場に酔って押しかけ、家宅侵入で捕まったこともあるが、監獄の中でも粘菌を見つけたという。
人柄は桁外れだった。夏はほとんど裸で過ごし、癇癪を起こすと相手かまわず殴りかかり、意のままに吐くことができたという話も伝わる。民俗学の柳田國男が田辺を訪ねたときは、緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔して対面した。それでも二人の文通は日本の民俗学の土台の一つになり、柳田は熊楠を「日本人の可能性の極限」と評した。
1929年6月1日、紀南に行幸した昭和天皇に、田辺湾の神島の沖に停泊した戦艦長門の上で粘菌について進講した。献上する標本は桐の箱に納めるのが常識だったが、熊楠はキャラメルの大きな空き箱に入れて差し出したと伝えられる。熊楠は62歳だった。生物学者でもあった天皇はこの日を長く覚えていて、1962年に南紀を訪れたとき、熊楠を偲ぶ歌を詠んでいる。
熊楠は大学にも研究機関にも属さず、生涯を在野で通した。学位も肩書きも持たなかったが、田辺の家には国内外から手紙や来客が絶えなかった。1941年12月、田辺の自宅で74歳で亡くなった。日記は1885年から亡くなる年までほぼ毎日つけられ、膨大な抜き書きや書簡とともに残っている。粘菌、民俗、宗教、性まで縦横に結びつける学問は、いまも全体がつかみきれないまま読まれ続けている。