人物

近藤内蔵之助

Kondo Kuranosuke
? – AD1807年11月15日
江戸幕府重要度 2

概要

寛政年間に天然理心流を開いた剣術家。多摩の農村に広まった流派は、のちに近藤勇らの新選組を生んだ。

本文

近藤内蔵之助は、江戸時代後期の剣術家で、天然理心流の開祖である。諱は長裕といい、内蔵助、内蔵之介とも書く。江戸に道場を開くとともに、武蔵国の多摩や相模の農村へ出向いて門人を広げた。この流派の4代目を継いだのが新選組の局長近藤勇であり、幕末の京都で名を上げた新選組の剣は、内蔵之助が始めた流れから出ている。

生まれた年は分からない。遠江国の出身といわれ、天真正伝香取神道流を開いた飯篠家直の子孫を名乗った。神道流をはじめ諸流の剣術を学んだのち、自分の流派として天然理心流を立てた。近藤弥吉という人物と立ち合って破り、近藤の姓を継いだとも伝えられるが、相手が誰だったのかは分かっていない。経歴の多くは流派の伝える話によるもので、確かな史料は少ない。

天然理心流は、剣術のほかに居合術、小太刀を使う小具足術、柔術、棒術までを含む総合的な武術だった。剣術と居合は鹿島神道流の系統、柔術や小具足術、棒術は竹内流の系統とされる。入門の後、切紙、目録、中極位目録、免許、印可、指南免許と段階を踏み、指南免許を得ると独り立ちして道場を開くことができた。剣と柔術を別々に学び、片方だけの免許を受けることもあったようだ。古武道の中では比較的新しい流派である。

内蔵之助が江戸に出て道場を開いたのは寛政年間(1789〜1801年)のことで、場所は両国の薬研堀(いまの東京都中央区)だった。ちょうど松平定信の寛政の改革で、幕府が武士に文武の励みを求めていた時代にあたる。江戸では幕臣やその家来が門人となったが、内蔵之助はそれだけでなく、多摩や相模の村々へ自ら出向いて稽古をつけた。門人は大いに増え、流派は江戸の外の農村に根を張っていった。

寛政の改革に関わる図版:Emperor Kōkaku
寛政の改革Wikimedia Commons Toyooka Harusuke · Public domain

多摩の村々に剣術が広まったのには、土地の事情もあった。この地域は幕府の直轄地や旗本の領地が入り組み、治安を自分たちで守る必要があった。村の名主や豊かな農民は、道場を設けて剣を学び、出稽古に来る師範を迎えた。天然理心流は、そうした村の有力者や若者に支えられた流派だった。のちに新選組を支えた日野の名主の佐藤彦五郎も、この流派を学んだ一人である。

1807年、内蔵之助は亡くなった。死に際して、2代目を近藤三助に譲り、流派の最後の免状である印可を授けた。墓は江東区北砂の妙久寺にあり、八王子市の桂福寺と横浜市の勧行寺にも供養の碑がある。三助は多摩から埼玉、神奈川にまで流派を広めたが、46歳で早く亡くなり、指南免許を誰にも授けなかったため、高弟たちがそれぞれの土地で教えるようになった。その一人、島崎周助がのちの近藤周助で、3代目として江戸の市谷に試衛館を構えた。

三助の門下で腕が随一といわれた増田蔵六は八王子千人同心で、八王子の近くで多くの弟子を育てた。千人同心は甲州口を守る幕府の郷士の集団で、ふだんは農業を営みながら武芸を磨く人々だった。別の高弟の系統からは、幕府が開いた武術の訓練所である講武所の剣術師範に採られた者も出ている。農村の剣術として始まった天然理心流は、こうして幕府の武芸の場にも足場を得ていった。

周助は多摩の農家の出の宮川勝五郎を養子に迎えた。これが近藤勇で、1861年に府中の六所宮で4代目を継ぐ披露の野試合を開いている。試衛館には土方歳三や沖田総司らが集まり、1863年に彼らは浪士組に加わって京都へ上った。ここから生まれた新選組は、1864年の池田屋事件で一躍名を知られることになる。天然理心流は、稽古に太い木刀を使い、気迫で相手を圧する実戦向きの剣として語られるが、その評判を広めたのは何より新選組の活躍だった。

明治維新の後も、天然理心流は近藤家の系統と、それ以外の多摩や埼玉の系統に分かれて伝えられた。いまもいくつかの会派が稽古を続けており、東京近郊の祭りには天然理心流の棒術と伝える演武も残っている。内蔵之助の名はあまり知られていないが、農村の剣術を育てたその仕事は、幕末の動乱の中で思いがけない形で花開いたのである。

動画(1)

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