ジャスパー・マスケリン
概要
イギリスの奇術師。第二次世界大戦の北アフリカで、奇術の技を欺瞞作戦に生かしたと語った。その功績の大きさには強い疑問もある。
本文
ジャスパー・マスケリンは1902年9月29日、ロンドンで奇術師の家に生まれた。祖父ジョン・ネヴィル・マスケリンはロンドンで長く奇術の劇場を営んだ大立者で、霊媒が見せる心霊現象の多くは奇術で再現できると舞台で示し、そのからくりを暴いたことでも知られる。父ネヴィルも奇術師で、奇術の理論書を書いた。ジャスパーも三代目として舞台に立ち、剃刀の刃を飲み込んでみせる芸で知られた。1936年には奇術の解説書と、マスケリン家の歴史を書いた本を出している。
1939年に第二次世界大戦が始まると、マスケリンは人の目を欺く奇術の技が偽装に役立つと考え、王立工兵隊に志願した。疑う士官たちの前で機関銃の陣地を隠してみせ、テムズ川の上に鏡と模型でドイツの軍艦が浮かんでいるように見せた、という話が伝わる。1940年にはファーナム城の偽装の訓練所で学んだが、そこでの評判は、夜に手品で皆を楽しませる人、というものだった。
やがてマスケリンはエジプトへ送られた。欺瞞の専門部隊Aフォースを率いたダドリー・クラークに呼ばれ、捕虜となった兵が逃げるための道具を作った。櫛に仕込んだ小さな鋸、クリケットのバットに隠した工具、トランプに隠した地図などである。1941年11月にはカイロ近郊で偽装部隊を作ったジェフリー・バーカスのもとで実験班を任された。しかしこの役目はうまくいかず、1942年2月までには兵士の慰問、つまり手品の上演に回されたと記録されている。
マスケリンを有名にしたのは、戦後の1949年に出た自伝『マジック・トップ・シークレット』(代筆による)と、1983年にデビッド・フィッシャーが書いた『ザ・ウォー・マジシャン』である。そこでは、彼の率いる仲間がアレクサンドリア港の偽物を夜の湾に作って爆撃をそらし、回転する鏡の光でスエズ運河を隠し、エル・アラメインの戦いの前には本物の戦車をトラックに、トラックを戦車に見せかけてロンメルを欺いた、と語られる。

エル・アラメインの前の欺瞞(バートラム作戦)は実際に行われ、効果を上げた。モントゴメリーは北から攻めるつもりだったが、ドイツ軍には南からの攻撃に見えるよう、偽の戦車、偽の水道管、偽の無線交信が用意された。ただしその中心にいたのはバーカスの偽装部隊の人々で、公式記録にはマスケリンの名はほとんど出てこない。
奇術師で軍事史家のリチャード・ストークスは、二つの本の多くの話は作り話で、マジック・ギャングと呼ばれた部隊も存在しなかったと論じた。スエズ運河を光で隠す装置も試作されただけだという。一方で、クラークが本当の考案者を隠すため、また欺瞞の技に上層部の信頼を集めるため、あえて派手な奇術師に手柄を語らせたという見方もある。マスケリンの戦争は、どこまでが事実でどこからが演出なのかを見分けにくい。イギリス本土でも、ドイツの偵察機に向けて航空機工場が爆撃で壊れたように見せる偽装に関わったという話があるが、これも裏付けは乏しい。確かなのは、北アフリカの砂漠で大がかりな偽装と欺瞞が実際に行われ、戦いの行方に影響したこと、そしてマスケリンがその物語の語り手として最も名を残したことである。
戦後、マスケリンは舞台に戻ったが、以前ほどの成功はなかった。1950年にアフリカへ渡り、南アフリカや東アフリカを巡業したのち、ケニアのナイロビに落ち着いて自動車学校を開いた。マウマウの反乱の時期には警察の機動隊を率いたともいう。1973年3月15日、ナイロビで死んだ。のちにイギリスの新聞は、公の評価を得られなかったことが虚栄心の強い彼には耐えがたく、失意のうちに酒に溺れて死んだ、と書いた。
彼の話は映画にしたくなるほど面白く、2003年にはトム・クルーズ主演で映画化が進められたが、話の真偽が問われて企画は止まった。マスケリンは、戦争の欺瞞を語ることで、自分自身についての大きな幻影を作り上げた奇術師だったともいえる。