人物

伊庭八郎

Iba Hachiro
1844年 – AD1869年6月21日(享年25・推定)
江戸幕府重要度 2

概要

心形刀流の剣士で幕府遊撃隊の隊長。箱根の戦いで片腕を失っても戦い続け、箱館戦争で傷を負って死んだ。

本文

伊庭八郎は1844年、江戸に生まれた。名は秀穎(ひでさと)。家は心形刀流の宗家で、御徒町に道場「練武館」を構え、幕末の江戸の四大道場の一つに数えられた。伊庭家では腕の立つ門弟が養子に入って流儀を継ぐことが多く、八郎ものちに義理の兄にあたる秀俊の養子となって宗家を継ぐ立場になる。

幼いころの八郎は剣より学問を好み、漢学や書を学び、蘭学にも関心を示したという。剣の稽古を始めたのは遅かったが、やがて頭角を現し、「伊庭の小天狗」「伊庭の麒麟児」と呼ばれるようになった。幕府に召し出され、1864年には将軍徳川家茂の上洛に従う腕利きの剣士の隊(奥詰)に加わった。このときの旅を記した日記が『征西日記』として残っている。幕臣の子弟に武術を教える講武所でも教授方を務めた。

1866年、奥詰の剣士たちは遊撃隊に組み替えられ、八郎もその一員になった。1867年、大政奉還の後に遊撃隊は上洛を命じられ、翌1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍と戦って敗れ、江戸へ引き上げた。

江戸が新政府軍に明け渡されることになっても、八郎は戦いをやめなかった。遊撃隊の一部とともに房総へ渡り、請西藩主の林忠崇を味方に引き入れ、相模・伊豆・甲斐と転戦した。

林忠崇は、藩主でありながら自ら藩を脱して旧幕府方に加わった珍しい大名である。遊撃隊は請西藩の兵を加え、前橋藩が守る富津の陣屋から戦わずに武器を手に入れ、館山から船で相模の真鶴へ渡った。途中で加わる者が多く、沼津に陣を構えたところで隊を組み直し、八郎は第二軍の隊長になった。上野で彰義隊が戦いを始めると、これに呼応して箱根の関所を押さえようとし、小田原藩と衝突した。5月26日の箱根山崎の戦いで腰に弾を受け、さらに斬られて、手術で片腕を失った。

それでも八郎は北へ向かおうとした。治療を受けながら奥州へ向かう船に乗ったが、船は銚子沖で座礁した。無念のあまり腹を切ろうとして仲間に止められ、横浜に身を潜めた。そこで会津が落ちたという知らせが届き、北へ行くのを思いとどまるよう説かれたが、仲間は「行けなければ八郎は必ず死ぬ」と頼み込んだという。八郎をかくまったのは、のちに英学者として知られる尺振八である。尺も「これほどの男を空しく死なせるのは惜しい」と頼みを聞き入れ、船の手配に動いた。11月、八郎は親しい仲間の本山小太郎とともに、アメリカの船で箱館に渡った。

箱館で八郎は榎本武揚らの旧幕府軍に加わり、遊撃隊の隊長に選ばれた。最後まで戦うことを説き、片腕のまま隊を率いて戦ったが、木古内の戦いで胸を撃たれた。当時の医術では手の施しようが無かった。傷病者が湯の川へ移されるなかで、八郎は五稜郭に入ることを望み、痛いとは一言も言わなかったという。最期は榎本武揚が差し出したモルヒネを飲み、自ら命を絶ったと伝えられる。数えで26歳だった。命日は墓碑に5月12日(新暦6月21日)と刻まれ、5月15日とする説もある。数日後の5月18日、五稜郭は開城し、戊辰戦争は終わった(箱館戦争の終結)。

八郎の辞世として知られる歌に「待てよ君 冥土も共にと 思ひしに しばし後るる 身こそ悲しき」がある。冥土まで一緒にと思っていたのに、少し遅れてしまうのが悲しい、という意味で、実際には先に戦死した親友に向けて詠んだものとされる。箱根の戦いで八郎が使った刀は甥の金田秀太郎が受け継ぎ、のちに海軍中将になった秀太郎が軍刀に仕立て直して帯びていたという。

八郎の墓は東京都中野区の貞源寺にある。弟の伊庭想太郎は、1901年に政治家の星亨を刺殺したことで知られる。片腕で戦い抜いた剣士の姿は、子母澤寛や池波正太郎の小説に描かれ、同じく箱館で死んだ土方歳三と並んで、幕府に殉じた若者の代表として語り継がれてきた。

動画(1)

リアルSEKIRO【伊庭八郎の生涯】戦で仲間と共に散った幕末の英雄!#剣豪武人猛将シリーズ非株式会社いつかやる片腕を失っても箱館まで戦い抜いた剣士の生涯
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