ガルガーノ・グイドッティ
概要
トスカーナの騎士で、回心して隠者となった聖人。モンテシエピの丘に、彼が地に立てたと伝わる剣が岩に刺さったまま残る。
所属
神聖ローマ帝国本文
ガルガーノ・グイドッティは、12世紀のトスカーナに生きた騎士で、のちに隠者となり聖人とされた人物である。シエナの南西、キウスディーノの近くにあるモンテシエピの丘には、彼が地面に突き立てたと伝えられる剣が、いまも岩から柄だけを出して残っている。
生まれたのは1148年頃とされるが確かではなく、1152年頃までの幅で考えられている。キウスディーノの小さな城に、土地の小貴族の子として生まれた。このあたりはヴォルテッラ司教の所領で、司教が伯の称号をもって城を治めていた。母の名がディオニジアであることは確かだが、父の名グイドあるいはグイドットは早い史料には出てこない。グイドッティという姓は、この父の名から後世につけられたものである。
ガルガーノは騎士としての道を歩んだ。のちの聖人伝は、若いころの彼を放埒で乱れた暮らしをしていたと描き、そこからの回心を強調している。母が後に語ったところでは、彼は大天使ミカエルの幻を二度見た。二度目の幻では、天使に導かれて長い橋を渡り、花の咲く野を越えてモンテシエピに着き、丸い礼拝堂の中でキリストと十二使徒、聖母マリアに会い、隠者として悔い改めの暮らしを送るよう勧められたという。
隠者の暮らしに入ったのは、1180年のクリスマスの前夜とされる。近くのチヴィテッラの城へ向かう途中、大天使が馬の手綱を取って彼をモンテシエピへ連れて行き、彼はそこが幻で見た場所だと気づいた。後の伝記は、この旅は息子を手放したくない母が、チヴィテッラの名家の娘との縁談を用意したためだったと付け加えている。
丘の上でガルガーノは十字架を作る木を剣で切ろうとしたが、うまくいかなかった。そこで剣を腰から外し、十字架の代わりに地面へ突き立てた。審問の記録は「十字架として剣を地に立てた」と簡潔に書く。後に広まった話では、世俗を捨てるのは剣で岩を割るほど難しいと言い返した彼が剣を突き立てると、剣はバターに入るように岩へ沈んだとされる。彼は外套を修道服に変えて身にまとい、野草を食べ、地面に眠り、祈りを求めて訪れる巡礼者を迎えた。
伝えられるところでは、ガルガーノがローマの教皇アレクサンデル3世のもとへ巡礼に出ている間に、彼をねたむ三人が剣を抜いて盗もうとした。抜けなかったので折ろうとし、罰を受けたという。後の聖人伝は、三人のうち一人は溺れ、一人は雷に打たれ、一人は狼に腕を食いちぎられたと語っている。
ガルガーノは1181年11月30日、モンテシエピの庵で死んだ。30代前半だったとみられる。死から4年後の1185年、ヴォルテッラ司教の求めで、教皇の命を受けた枢機卿コンラート・フォン・ヴィッテルスバッハらの委員会が、彼の生涯と奇跡を調べた。母を含む20人の証言を書き留めたこの審問の記録は、現存する列聖手続きの記録として最も古いものとされ、後の教会が聖人を認める手順の手本になったとみる研究者もいる。もっとも、教皇が正式に列聖を宣したのか、委員会が教皇の委任で認めたのかははっきりしない。
墓の上には、幻で見たとおりの丸い礼拝堂が建てられた。いまモンテシエピのロトンダと呼ばれる建物で、その床の岩に剣が刺さっている。丘のふもとには、ガルガーノを自分たちの聖人として迎えたシトー会の創設の流れをくむ修道士たちが、13世紀前半までに大きな修道院を建てた。サン・ガルガーノ修道院は後に衰え、いまは屋根の落ちた聖堂の壁だけが残る名所になっている。
剣は1960年に盗もうとした者に折られ、修理されて岩にセメントで固定された。2001年には化学者ルイジ・ガルラスケッリらが柄の金属を調べ、成分と形がこの時代のものと矛盾しないと報告している。
岩に刺さった剣という姿から、ガルガーノの剣はアーサー王の伝説の「石に刺さった剣」と並べて語られることが多い。ただし、どちらがどちらに影響したのかを示す確かな証拠はない。剣が岩に残るという話は、『ロランの歌』のロランの剣デュランダルにもあり、中世の人々が剣と聖なるものを結びつけて考えていたことをうかがわせる。同じ頃、トスカーナはフリードリヒ1世(バルバロッサ)の帝国と教皇がせめぎ合う土地だったが、ガルガーノの名は戦いではなく、剣を捨てた騎士として残った。